男大いに器量を下げたるが、『好し/\、さらば、世間に知れざる櫻の名所案内申さむ。いざ/\來給へ。』
二 市川の桃林
本所押上町までは、市内電車に乘る。それより京成電車に乘りて、市川新田に下り、千葉街道の裏手を行く。左右は桃園也。萎みて色褪せたれど、花なほ枝に在り。紅色多きが、をり/\白色もまじる。喬松とりかこみて、桃を擁護するに似たり。夜光命、裸男の肩を叩いて曰く、『櫻の新名所へと云ひつるに、これは音に聞く市川の桃林に非ずや。よめたり/\、君が櫻の名所といふは、さきに電車の中より、ちらと見たる小利根川畔一帶の櫻雲なるべし』と、氣が付かれては仕方なし。正直に白状して曰く、『然り、今の處、いはば捨鐘也。似而非風流人は、一概に凡桃俗李とけなせど、まんざら見限つたものに非ず。まあ/\進み給へ。』
疎籬をかこひて、人の入る能はざるやうにしたるが、時に口をあけ、茶店を設けて、客を迎ふる桃林もあり。一園の中に、二人の若紳士の酒酌みかはせるを見る。一美形之に侍す。一目直ちに藝者と見らる。夜光命ちらと見て、裸男に謂つて曰く、『桃の夭々たるものか。それにつけて思ひ出さるゝは、われ此頃京に遊びしに、途上相逢ふの女に美人らしきものなかりき。東京に歸り來れば、路上みな美人也。もとは、これがあべこべなりき。東京は金力を集中し、權力を集中し、從つて美人をも集中するに至れるか。水道の普及せるも、女の顏を美にする一因にあらずや』と云ふに、『水道の水は白粉とよく調和するかも知れず』と答へつゝ、客は二人なるに、藝者は一人のみなるかと、目を園の一方に移せば、居るは/\、桃花の奧に、蓮歩を運ぶ一美形、※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−74]娜たる後姿のみ見えて、其の顏は見えざりき。
白旗神社の前を過ぎ、山王山不動堂の境内を通りて、八幡宮に至る。境内ひろく、木立しげる。祠畔に銀杏の大木あり、十數幹簇生して、一樹を成す。試みに抱へて見しに、七抱へありき。相傳ふ、この樹に蛇多く棲み、祭日には、必ず現はれ出づるとかや。老木は何の木にても、尊く仰がるゝ哉。實はこの老木を見たさに、わざ/\此に來りたる也。
三 小利根川の右岸
捨鐘はこれにて濟みたり。千葉街道に出で、引返して、市川橋を渡り、小利根川の右岸を上る。堤の兩側の櫻、若けれども、花を著けたり。春水溶
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