るものは、樂石社也。其の發明にかゝれる吃音嬌正法也。現に余の二兒は、翁の教授を受けて、吃音を矯正せり。われ深く翁を徳とす。かねて、之を天下の同病者に知らさむと思ふこと切也。
 茗荷谷の奧、小日向臺と相接せむとする處に、深光寺といふ寺あり。そこに徳川時代の小説家の泰斗なる瀧澤馬琴の墓あり。これも小石川臺の一名物なるべし。
 思ひまはせば、早や二十年の昔となりぬ。稱好塾に寓せし頃、巖谷小波、江見水蔭も共に寓したりき。その頃は、傳通院と植物園との間の一帶の低地は、水田なりき。丘には狐棲み、水田には雁下りたりき。水蔭などは、よく狐狩りに出掛け、雁に石を投げたる當年の豪傑兒也。
[#地から1字上げ](明治四十三年)



底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月25日作成
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