むともせず、裂きたる玉章手にもちて、くれなゐの袖、やさしき口にかみしめたるまゝ、何を怨むか、続々として欄干の上に堕す涙の、月にかゞやきて、さながら真珠を散らすが如くなるに、よそめもいとゞ消えたき思ひすべし。
 ひねもす清渓に釣する翁の、家にまつ人もなければにや、日くるゝも、なほ枯れ木の如く石に腰かけて、垂るゝ綸のはしに、いつしか一痕の月かゝるよと見るほどに、やがて手応へしければ、ひき上ぐる竿の彎々たるにかゝり来れる一尾の香魚の溌刺たるを捉へて、かごに入れて、今日はこれまでなりと、鼻歌たかくうたひて帰りゆきしあと、渓水旧に依りて、空しく月を砕いて流るるもいとすが/\し。
 ひとりにはひろき蚊帳の中、白くほのみえて、あふぐ団扇の音と共にえならぬ香り洩れて、縁には焚きさしの蚊遣火なほいきて残れる夏の短夜に、またぬ月影、はや松の枝にかたむきそめて、さやけき光を、ねやの中まで送れるは、いかなる浮世の外の情ぞや。
 薄に置ける白露を、かしくと読みしゆふべ、夜に入りて暗きをたよりに、跫足しのばせてたどる行手の黒き影に、さぞやまちわびてと近寄るほどに、雲破れて洩るゝ月の下、さびしげに立てる石地蔵の前に、あきれ顔なる賤の女の、さすが手拭に顔のなかばは包みて、しどけなきもすその脛もあらはに血のにじみたる跡あるは、人目をしのぶ路の、いばらなどにきずつけられしにやとあはれなり。
 千里雲へだたりて、明月むなしく両地の情を照す秋の夕べ、昔は共にこの月に泣きたる事もありしと、そゞろにうらがなしく、年の十とせ、満身の血の半ばは詩に灑ぎ、半ばは恋に灑ぎて、思ひ絶えなむとする今宵、月に向ひて腸をたつ我身の影さびしく、たゝみの上に累々として細し。
 両毛の間に遊びて、妙義山を下りしとき、もてる銭悉くつきて、今は食を得るに由なく、飢をしのびて、昨夜は稲田のあぜに眠り、今宵は路ばたの材木の上に眠らむとせしに、蚊多くして眠られず。よろめく足を踏みしめて、あゆむ行手に、ひろき瓜田あり。金銀財宝とは異なりて、天地のつくりなせるものをしばらくかりて我飢を医せんにはと、心むら/\と乱れて、あはやわれ履を瓜田に入れむとせし刹那、我影のあまりに明かなるに、仰げば隈なき一輪の月魄、天つ御神のにらみたまふかと思はれて、そゞろに身の毛よだち、穴あらばとばかりに身をちゞめて、月を拝みてぞ泣きし。



底本:「日本の名随筆58
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