處の蓙は、三人にて占めたり。そこには月影させるを以て、三人の顏さやかに見ゆ。二人は洋服の紳士、一人は丸髷の年若き女也。白粉のにほひ、この女より洩れ來たる。三人とも、よく饒舌りて語り合ふ。男は友人同士にて、一瓶のビールを分ち合ふ。女は、どちらかの細君と思へど、さうでもなし。船に乘る少し前に、知合となりたるにて、夫は下室に殘し、凉味を取らむとて、己れ一人甲板に上りたるにて、所謂怪しき女にてもなし。中等社會の奧樣也。然るに、其顏を見れば、多情の相也。甘つたるき口付にて、『宿は客を好めど、妾はうるさくて堪まらず』など、はしたなきことを、臆面もなく吐露す。馬鹿は馬鹿にしても、奧樣然として居ることか、昨今の知合にて、己れに接する男にしなだれかゝる。藤の蔓の、杉にからまるも啻ならざる有樣。さすがに男も友人の手前を憚りてや、ふと身を轉じて、天上の明月を見る。
裸男の蓙にては、老いたる女、先づ横になる。若き女も暫らくして横になる。艫の男女三人も横になる。甲板の上、幾んど横にならぬものはなし。二人三人、横にはならざるが、體を曲げて眠れる樣子也。裸男ひとり正坐す。これ裸男が唱ふる所の正坐法を實行する也。
風あれども、波たゝず。如何に船に弱き人とて、この船には醉はざるべしと思はるゝばかり也。而も凉しく、而も月明かに、船は靜に金波銀波の上を行く。この凉味と快味とは、少なくとも裸男の二三年以來には知らざりし所也。されど夜の二三時となりては、凉しさ過ぎて、むしろ寒さを覺ゆ。眠くなりては、正坐も苦しくなりぬ。されど身を横にするの餘地なし。若き女起き上りて、餘地あり。身を横にす。幾時間か眠りけむ、眼をさませば、月落ちて、日未だ出でず。曙色天に滿ちて、品川の砲臺、近く船尾に見えたり。[#地から1字上げ](大正五年)
底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月26日作成
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