。堤を右に下りて、身はいつしか其の香雪の中に入る。屋根門の内に、大なる藁葺の一構へあり。川邊氏とて、この地の豪農也。梅はその構外の前にあり、横にあり、後ろにもあり。老いたるもあれば、若きもあり。麥畑入り込み、竹林、雜木林相接し、松林もあり。所謂梅林的ならずして、野趣愛すべし。掛茶屋の赤毛布に腰を卸せば、老婆茶を侑む。『持主は誰れ』『川邊氏』、『何本かある』『凡そ六百本』、『幾何の收入かある』『四五百圓』、『梅林は此處だけなるか』『一昨年までは、山の彼方の上作延《かみさくのべ》にも梅林ありたるが、今は梅を切りて、栗を植ゑたり』。これにて要領を得たるが、老婆はなほ梅の根元に堆き藁を指して、『藁が一番梅の肥料になる』といふ。又『花の速く咲けるは、其の實の生ずること遲く、花の遲く咲けるは、其の實の生ずること早し』といふ。これは三人とも初耳也。『いづれが酢きか』と問はざりしは、拔かりたり。人に譬ふれば、前者は小僧上りにして、後者は學校出なるべくや。
 梅林を辭して、西に數十間行けば、一帶の小山樹木を帶ぶ。多摩川の分水、其の麓を洗ふ。水閘の下、數十間の間、水清くして深く、流るゝこと駛く、目覺むる心
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