とした事か疑いもなく南室から見える木立と同じように、明かに白緑色を呈している。
「先晩、調べてみましたがね」大月が云った。「あれは合歓木《ねむ》の木立でしたよ。そら、昼のうちは暗緑色の小葉《こば》を開いていて、夕方になると、眠るように葉の表面をとじ合わせて、白っぽい裏を出してしまう……」
「成る程……判りました。いや、よく判りました。つまり川口は、あの時、この景色を描いていたんですね」
「そうです」
「じゃあ、それからどうなったんです?」
「……ねえ、主任さん」と大月が開き直った。「私達は始めての土地へ来ると、よく方位上の錯覚を起して、どちらが東か南か、うっかり判らなくなることがありますね。……当時の亜太郎も、きっとそれを経験したのです。で、東京を出る時に、見送りに来た白亭氏から、妙な注意をされて、なにも知らない川口氏は、なんのことかさっぱりわからず、持ち前の小心でいろいろと苦に病み、金剛氏等の云うようにすっかり鬱《ふさ》ぎ込んでしまったのでしょう。けれども目的地に着いて、この地方の美しい夕方の風光に接すると、画家らしい情熱が涌き上って来て、心中の疑問も暫く忘れることが出来、早速|東室《このへや》へやって来ると、この窓に恰度こんな風に現れていた影富士を見て、直《ただち》に方位上の錯覚を起し、感興の涌くままに、本物の富士のつもりで、この薄紫の神秘的な影富士を素速く写生しはじめる……」
「成る程」
「けれども、勿論これは、入日のために箱根地方の霧に写った影富士ですから、当然間もなく消えてしまいます。そこで、ふとカンバスから視線を離した川口氏は、一寸《ちょっと》の間に富士が消えてしまったのに気づいて、始めから本物だと思い込んでいただけに、この奇蹟的な現象に直面して、ひどく吃驚《びっくり》したに違いありません。するとその瞬間、川口氏の頭の中にその朝東京を出るときに白亭氏から与えられた妙な注意の言葉が、ふと浮びます。あれは、確か……あちらへいったら、ふじさんにきをつけなさい……と云うような言葉でしたね?……」
「むウ、素晴しい。……つまり、やっぱり私が、最初から睨んでいた通り、不二さんは、富士山に、通ずる……ですな……ふム、確かにいい。実に、完全無欠だ!」
司法主任はすっかり満悦の体《てい》で身を反らし、小鼻をうごめかしながら、おもむろに窓外を眺め遣《や》った。
そこには、夕風に破られた狭霧の隙間を通して、恰度主任の小鼻のような箱根山が、薄暗の中にむッつり眠っているだけで、もう富士の姿は消えたのか、影も形も見えなかった。
[#地付き](「ぷろふいる」昭和十一年一月号)
底本:「とむらい機関車」国書刊行会
1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「ぷろふいる」ぷろふいる社
1936(昭和11)年1月号
初出:「ぷろふいる」ぷろふいる社
1936(昭和11)年1月号
入力:大野晋
校正:川山隆
2009年1月27日作成
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