闖入者
大阪圭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)岳陰荘《がくいんそう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)取|繞《めぐ》る
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)とみ[#「とみ」に傍点]
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一
富士山の北麓、吉田町から南へ一里の裾野の山中に、誰れが建てたのか一軒のものさびた別荘風の館がある。その名を、岳陰荘《がくいんそう》と呼び、灰色の壁に這い拡がった蔦葛《つたかずら》の色も深々と、後方遙かに峨々《がが》たる剣丸尾《けんまるび》の怪異な熔岩台地を背負い、前方に山中湖を取|繞《めぐ》る鬱蒼たる樹海をひかえて、小高い尾根の上に絵のように静まり返っていた。――洋画家の川口亜太郎《かわぐちあたろう》が、辻褄の合わぬ奇妙な一枚の絵を描き残したまま卒然として怪しげな変死を遂げてしまったのは、この静かな山荘の、東に面した二階の一室であった。
それは春も始めの珍しく晴渡った日の暮近い午後のことである。この辺りにはついぞ見かけぬ三人の若い男女が、赤外線写真のような裾野道をいくつかの荷物を提《さ》げながら辿り辿りやって来た。見るからに画家らしい二人の男は川口亜太郎とその友人の金剛蜻治《こんごうせいじ》、女は亜太郎の妻|不二《ふじ》、やがて三人が岳陰荘の玄関に着くと、あらかじめ報《しらせ》のあったものと見えて山荘に留守居する年老いた夫婦の者が一行を迎え入れた。
やがて浴室の煙突からは白い煙が立上り、薪を割る斧の音が辺《あたり》の樹海に冴え冴えと響き渡る。けれどもそれから二時間としないうちに、山荘へは黒革の鞄を提げた医者らしい男が慌だしく駈けつけたり、数名の警官が爆音もけたたましくオート・バイを乗りつけたりして、岳陰荘はただならぬ気色《けしき》に包まれてしまった。それはまるで三人の訪問者が、静かな山の家へわざわざ騒ぎの種を持ちこんだようなものだ。
恰度美しい夕暮時で、わけても晴れた日のこの辺りは、西北に聳え立つ御坂《みさか》山脈に焼くような入日を遮《さえぎ》られて、あたりの尾根と云い谷と云い一面の樹海は薄暗《うすやみ》にとざされそれがまた火のような西空の余映を受けて鈍く仄《ほの》赤く生物《いきもの》の毒気のように映えかえり、そこかしこに点々と輝く鏡のような五湖の冷たい水の光を鏤《ちりば》めて鮮かにも奇怪な一大裾模様を織りなし、寒々と彼方に屹立する富士の姿をなよやかな薄紫の腰のあたりまでひッたりとぼかしこむ。東の空にはけれどもここばかりは拗者《すねくれもの》の本性を現わした箱根山が、どこから吹き寄せたか薄霧の枕屏風を立てこめて、黒い姿を隠したまま夕暗《ゆうやみ》の中へ陥ちこんで行く。やがて山荘の窓には灯がともった。その窓に慌だしげな人影がうつる。云い忘れたが岳陰荘は二階建の洋館で、北側に門を構え、階下は五室、二階は東南二室からなり、その二室にはそれぞれ東と南を向いて一つずつの大きな窓がついていた。川口亜太郎の死はこの二階の東室で発見された。
まだ旅装も解かぬままにその上へ仕事着《ブルーズ》を着、右手には絵筆をしっかりと握って、部屋の中央にのけぞるように倒れている亜太郎の前には、小型の画架《イーゼル》に殆ど仕上った一枚の小さな画布《カンバス》が仕掛けてあり、調色板《パレット》は乱雑に投げ出されて油壺のリンシード・オイルは床の上に零《こぼ》れ、多分倒れながら亜太郎がその油を踏み滑ったものであろう、くの字なりに引掻くように着いていた。
急報によって吉田町から駈けつけた医師は、検屍の結果後頭部の打撲による脳震盪が死因であると鑑定し、警官達は早速証人の調査にとりかかった。
最初に訊問を受けた金剛蜻治は、自分達の先輩であり恩師にあたる津田白亭《つだはくてい》が半歳《はんとし》程前にこの岳陰荘を買入れた事、最近川口と二人で岳陰荘の使用を白亭に願い出たところが快く承諾を得たので、当分滞在のつもりで三人して先刻《さっき》ここへ着いたばかりである事、死んだ川口は一行が白亭夫妻に送られて今朝《けさ》東京を発った時から、なにか妙に腑に落ちぬような顔をしてひどく鬱《ふさ》ぎ込んでいたが、それでもこの家へ着いた頃からいくらか元気が出た事、事件の起きた頃には自分は風呂に這入っていた事、尚川口夫婦は二階の二室を使用し自分は別荘番の老夫婦と一緒に階下を使うようになっていた事などを割に落付いた態度で答えた。
続いて亜太郎の妻不二は、金剛と同じように川口が東京を出た時からの憂鬱について語ったが、夫の事でありながら打明けてくれなかったのでその憂鬱の中味がどんなものであるか少しも判らない事、それでもこの家へ着くと始めて見るこの辺《あたり》の風景が気に入ったのか割に元気になって
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