と、足音も荒く、さっさと帰ってしまった。
五
さて、大月弁護士が、司法主任への約束を果したのは、それから二日目の、天気のよく晴れ渡った日暮時のことであった。
大月と司法主任は、東室の長椅子《ソファー》に腰掛けて、窓の方を向いてお茶を飲んでいた。
司法主任は、相変らず御機嫌が悪い。焦立《いらだ》たしげに舌打ちしながら、やがて大月へ云った。
「まだですか?」
「ええ」
「まだ、出ないんですか?」
「ええ、もう少し待って下さい」
そこで司法主任は改めてお茶を飲みはじめた。が、暫くすると、一層焦立たしげに、
「いったい、その怪しげな奴とやらは、確かに出て来るんですか?」
「ええ、確かに出て来ますとも」
「いったい、そ奴は何者です?」
「いや、もう間もなく出て来ます。もう少し待って下さい」
「……」
司法主任は、不機嫌に外を向いてしまった。
空は美しい夕日に映えて、彼方の箱根山は、今日もまた薄霧の帳《とばり》に隠れている。
裏庭の広場では、どうやら安吉老人が薪《たきぎ》を割り始めたようだ。きっと浴室の煙突からは、白い煙が立上っているに違いない。
と、不意に司法主任が立上った。右手にコーヒー茶碗を持ったまま、呻くように、
「こ、こりゃあ、どうしたことだ!」
「……」
「あんなところに……」司法主任の声は顫えている。「あんなところに……むウ、富士山が出て来た!……こ、こりゃあ妙だ?」
見ればいつのまにか、箱根山を包んだ薄霧の帳《とばり》の上へ、このような方角に見ゆべきもない薄紫の富士の姿が、夕空高く、裾のあたりを薄暗《うすやみ》にぼかして、クッキリと聳えていた。
「あなたは、こう云う影の現象を、いままでにご存じなかったのですか?」
大月が微笑みながら云った。
「いや私は、最近こちらへ転勤して来たばかりです!……ふうム、成る程。つまりこりゃあ、入日を受けて霧の上へ写った、富士山の影ですね」
「では、序《ついで》に」と大月は前方を指差しながら、「どうです、ひとつ、あの近景の木立を見て頂きましょうか」
「……」
司法主任は黙ってそちらを見た。
「……あれは、なかなか恰好のいい木立でして……」
「やややッ!」と主任は奇声を張りあげた。「むウ……色が変ってしまった!」
成る程、薄暗の中に一層暗くなっていなければならない筈の暗緑色の木立は、なん
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