「そら出た。止めて!」
「なにが出たです?」警部補だ。
「もう消えました。直ぐまた出ます。そこでは見えません。ずッとこちらへ来て下さい」
警部補は乗り出して、操縦席の大月氏の横へひょいと顔を出して前を見た。
「何も見えませんよ」
「いや。直ぐ出ます。……そら! 出たでしょう。いや、自動車《くるま》の外じゃあない。直ぐ眼の前の硝子《ガラス》窓です」
「ああ!」
――直ぐ眼の前の窓|硝子《ガラス》の表面には、L字を逆立ちさせたような、有り得べからざる右曲り[#「右曲り」に傍点]の矢標《やじるし》を書いた標識が、明るく、近く、ハッキリと写った。が、直ぐにそれは、吸い込まれるように闇の中へ消えてしまった。
眼前の道路は左に折れているのだが、幻の標識は右曲りだ!
七
「いや、あなたが硝子《ガラス》に写ったものを見て、直ぐに後ろの窓を振返ったのは、正しいです」
やがて大月氏は、そう云って感心したように、警部補の肩を叩くのだった。
――全く、座席の後ろの四角い硝子《ガラス》窓からは、テール・ランプに照らされて仄赤《ほのあか》くぼやけた路面が、直ぐ眼の下に見えるだけで、あとは墨のような闇だったのだが、直ぐにその闇の中に、何処からか洩れて来る強烈な光に照らされて、いま自動車が通り越したばかりの道端の道路標識が、鮮やかにも浮きあがるのだ。そしてその幻のような闇の中の標識は浮きあがるかと見れば直ぐに消え、やがてまた浮きあがり直ぐに消え、見る人々の眼の底に鮮やかな残像をいくつもいくつもダブらせて行くのだった。
「偶然の悪戯《いたずら》ですよ」大月氏が云った。「あれは、直ぐ横の小山の向うから、斜めに差し込む航空燈台の閃光です。つまりこちらから見ると、向うの左曲りのカーブを教えるために正しく左曲りを示している暗《やみ》の中の標識が、閃光に照らされた途端に、後ろの窓を抜けて、前のこの硝子《ガラス》窓へ右曲りの標識となって、写るんです。……クーペはルーム・ライトを消してたし、前の谷が空気は清澄で、ヘッド・ライトは闇の中へ溶け込んでいます。おまけにこの硝子《ガラス》は、少しばかり傾斜していますので、反射した映像は、操縦席で前屈みになっている人でなくては見えません。……でも、それにしても、ふッと写ったこの虚像を、本物と見間違えて谷へ飛び込むなんてただの人間[#「ただの人間」に傍点]じゃアないですね」
「よく判りました。とにかく、早速下りて見ましょう」
警部補の発言で、人々は自動車《くるま》を捨てて谷際《たにぎわ》へ立った。ヘッド・ライトの光の中へ屈み込んで調べると、間もなく道端の芝草の生際《まぎわ》に、クーペが谷へ滑り込んだそれらしい痕がみつかった。
「この辺《あたり》なら下りられますね。傾斜《スロープ》は緩《ゆる》やかなもんですよ」
夏山警部補はそう云って、山肌へ懐中電燈をあちこちと振り廻しながら、先に立って下りはじめた。
「夏山さん」後から続いて下りながら、大月氏が声を掛けた。「それにしても、犯人が堀見氏のお嬢さんだって、なにか証拠があるんですか?」
「兇器ですよ」警部補は歩きながら投げ捨てるように云った。「婦人持ちの洒落《しゃれ》たナイフに、十七回誕生日の記念文字が彫ってあるんです。しかも、今年の春の日附まで……そして、お嬢さんの富子さんは、今年十七です」
大月氏は黙って頷くと、そのまま草を踏付けるようにしながら、小さな燈《あかり》をたよりに山肌を下りて行った。が、やがてふと立止った。
「夏山さん……生れて、二つになって、第一回の誕生日が来る。三つになって、第二回の誕生日が来る……そうだ、今年十七の人なら、十六回の誕生日ですよ」
「えッ、なに?」
警部補が思わず振返った。
「夏山さん……十七回の誕生日なら、ナイフの主は十八ですよ」
「十八?……」と警部補は、暫く放心したように立竦んでいたが、直ぐに周章《あわ》ててポケットからノートをとり出し、顫える手でひろげると、「いやどうも面目ない。全くその通りですよ。それに……ちゃんと十八の娘があるんです」
「誰です、それは?」
「女中の敏やです!」
恰度この時、警官の懐中電燈に照らされて、山肌の一寸平らなところに、ほぐくれたような大きな痕がみつかった。
「あそこでもんどり[#「もんどり」に傍点]打ったんだな。自動車が……」
大月氏が叫んだ。
「もう直ぐだ。急ぎましょう」
人々は無言でさまよいはじめた。このあたりから、茨《いばら》や名も知らぬ灌木が、雑草の中に混りはじめた。やがて大月氏が枯れかかった灌木の蔭で、転っていたクーペの予備車輪を拾いあげた。人々は益々無言で焦《あせ》り立った。小さな光が山肌を飛び交して、裾擦れの音がガサガサと聞える。と、警部補がギクッとなって立止
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