した」
「見えなかった? だって切符を買いに来たでしょう?」
「いえ、来ません。あれは大将の自動車《くるま》です」
「なに、大将?」紳士は急《せ》き込んだ。
「はい」事務員は切符に鋏《はさみ》を入れて出しながら、「この会社の重役で堀見《ほりみ》様の自動車《くるま》ですから、切符なぞ売りません」
「なに、堀見?……ははア、あの岳南鉄道の少壮重役だな。じゃあ、クーペの操縦者は、堀見氏だったんだね?」
「さあ、それが……」
「二人乗ってたでしょう?」
「いいえ、違います。一人です。それは間違いありません」
 紳士の態度を警察官とでも感違いしたのか事務員は割に叮寧になった。
「いずれにしても」紳士が事務員へ云った。「大変なんだ。実は、あのクーペが、歩行者を一人|轢《ひき》逃げしたんだ」
「轢逃げ?」事務員が叫んだ。「で、怪我人は?」
「僕の自動車《くるま》へ収容して来た」
「大丈夫ですか?」
「それが、とてもひどい……恐らく、箱根まで持つまい」
 こう話している内にも、事務員は明らかに驚いたらしく、見る見る顔色が蒼褪《あおざ》めて来た。
「……そうでしたか……道理で可怪《おか》しいと思いました……いや、申上げますが、実は、此処でも変なことがあったんです」
「なに、変なこと?」紳士が乗り出した。
「ええ、それが、なんしろ、重役の自動車《くるま》ですから、其処《そこ》で止まったと思うと、直ぐに私は飛出して、遮断機を上げ掛けたんです。すると、余程急ぐとみえてまだ私が遮断機を全部上げ切らないうちに、自動車《くるま》はスタートして、アッと思う間に前部の屋根でこの遮断機を叩きつけたまま、気狂いみたいに馳け出してしまったんです」と表の道路の方を顎で差しながら、「……いままで二人して、応急の修理をしていたところです」
 こんどは紳士のほうが驚いたらしい。
「ふうむ、とにかく僕は、これから直ぐに箱根へ行くのだが――おッと、ここには電話があるだろう?」
「あります」
「よし。箱根の警察へ掛けてくれ給え。いま行ったクーペを直ぐにひっ捕えるように。いいかね。よしんば重役でも、社長でも、構わん」
「そんなら、とてもいい方法がありますよ。向うの箱根峠口の、有料道路《ペイ・ロード》の停車場《スタンド》へ電話して、遮断機を絶対に上げさせないんです」
「そいつア名案だ。だが、いまの調子で、遮断機をぶち破って
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