の朝だった。
老看護人の鳥山宇吉《とりやまうきち》は、いつものように六時に目を醒すと、楊枝《ようじ》を啣《くわ》えながら病舎へ通ずる廊下を歩いて行ったのだが、歩きながら何気なしに運動場の隅にある板塀の裏木戸が開放《あけはな》しになっているのを見ると、ハッとなって立止った。
ここでちょっと説明さして貰うが、赤沢脳病院の敷地は総数五百五十坪で、高い板塀に囲まれた内部には診察室、薬局、院長夫妻その他家人の起居する所謂母家と、くの字に折曲った一棟の病舎が百五十坪程の患者の運動場を中に挟んで三方に建繞《たちめぐ》り、残りの一方が直接板塀にぶつかっていて、板塀の病舎寄りのところに今いった裏木戸が雑木林へ向ってしつらえてあるのだが、むろん狂人の運動場へ直接続く木戸であるから母屋の勝手口なぞと違って表門同様に開放されると云うことは絶対になく、いつも固く錠がおろされている筈だった。もっとも時たま院長がここから裏の雑木林へ朝の散歩に出かけたりすることがあるので、ふと思いついた看護人の鳥山宇吉は、それでは院長が出られたのかなと思いながら取りあえず木戸の方へ歩いて行った。けれどもたとえ院長が散歩に出るにしても大事な木戸を開放しにすると云うことは、少しの間といえども決して許されないことだ。鳥山宇吉はそう思いながら木戸まで来ると、立上って不安そうに塀の外を見廻した。
誰もいない。
雑木の梢《こずえ》で姿の見えない小鳥共が、ピーチクピーチク朝の唄を唄っていた。すると宇吉はふと奇妙なことに気がついて思わず啣《くわ》えた楊枝を手にとった。
いつも朝早くから唄いつづける「歌姫」のソプラノが、そう云えば、今朝は少しも聞えない。「歌姫」のソプラノどころか、あれほど執拗でこ[#「こ」に傍点]うるさい「トントン」さえも、どうしたものか聞えない。ガランとした病舎はひどく神妙に静まり返って、この明るさの中に死んだように不気味な静寂《しじま》を湛えていた。全く静かだ。その静けさの中から、低く遅くだが追々速く高く、宇吉の心臓の脈打つ音だけが聞えて来た。
「……これァ……どえらい事になったゾ!」
思わず呟いた鳥山宇吉は、みるみる顔色を青くしながらそのまま丸くなって病舎の方へ駈け込んで行った。
ガラガラ……バタンバタン……暫く扉《ドア》を開け閉《た》てする音が聞えていたが、やがて悲しげな顫《ふる》える声が「
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