いや大変結構でした。とにかくこう云う人達を扱うには、決して刺戟を以ってしてはいけません。柔かく、真綿で首を締めるように、相手と同じレベルに下って、幼稚な感情や思索の動きに巧《たくみ》にバツを合せて行かなければいけません」
 博士はそれから、「歌姫」を相手にして暫く妙な問答をしながら、それとなく鋭い眼で相手の身体検査をするらしかったが、直ぐに向き直って司法主任へ云った。
「この男は犯人ではありません。どこにも血がついていません。あれだけの惨劇を狂人がしでかして、こんなに綺麗でいる筈はありません。……やはり共犯ではなく、残りの二人のうちの誰かがやったんでしょう。とにかく、この男は、もう元の住家へ返してもよろしい」
 そこで博士の指図通り、「歌姫」は無事に赤沢脳病院へ連れ戻されて行った。
 そして司法主任は、残る「トントン」と「怪我人」の捜査に全力を注ぎはじめた。
 ところが、それから一時間としない内に、松永博士の恐ろしい予言が、とうとう事実となって報告されて来た。
 それは――M市の場末に近い「あづま」と呼ぶ土工相手の銘酒屋の女将《おかみ》が、夜に入って、銭湯へ出掛けようとして店の縄暖簾《なわのれん》を分けあげた時に、暗い道路の向うからよろよろとやって来た男があったが、近付くのを見ると女将はキャッと声を上げた。着物の前をはだけた中年の男で、顔中血だらけにして両の眼を異様に据えつけたまま、お地蔵様のように捧げた片手の掌《て》の上に、なにか崩れた豆腐のようなものを持って見るからに蹌踉《そうろう》とした足取りで線路の方へ消えて行った、と云うのだった。
 それを「あづま」の女将から聞込んだ警官の報告を受取ると、司法主任は蒼くなって立上った。そして松永博士に同行を乞うと、そのままとりあえず場末の銘酒屋まで車を走らせた。
 そこで女将からもう一度前記の報告を確めると、狂人が消えて行ったと思われる線路の方角一帯に亘って急速な捜査をしはじめた。

 恰度その頃、松永博士の所謂「興奮の鎮まって腹の空く時期」とでも云うのがやって来たのか、市内を縦貫しているM川の附近で、もう一人の狂人が捕えられた。
 顔から頭へかけて繃帯をグルグル巻きにした「怪我人」で、恰度「歌姫」が出現した時のようにふらふらと橋の上へ立現われて、ひどく弱り切った風情で暗い水面を覗きこんでいた。それを通行人から報せを受けた
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