見出して、その次に小さな文字が何行も並び、それから又、前よりは少し小さな活字ではあるが、一層恐しい第二の見出しが印刷されてあった。

[#ここから2字下げ]
犯人は洋服姿の大男で、中指のない四本指の右手が最大の特徴《とくちょう》、凶器《きょうき》を擬《ぎ》せられつつ沈着なる宿直員の観察《かんさつ》
[#ここで字下げ終わり]

 クルミさんは、急に眼の前がクラクラッとなって、思わずうしろのもたれ[#「もたれ」に傍点]へよりかかってしまった。

       四

 なんという恐しいことだろう!
 からだ中の血潮《ちしお》が、ドキドキと逆流《ぎゃくりゅう》するようだ。とてもジッとしていられない。が、さりとて、妙に体が硬張《こわば》って、声を立てることも、動くことも出来ない。
「人違いであってくれればいいが!」
 クルミさんは、一所懸命に自分を押えつける。しかし、その下から、ムクムクと恐しい考えが浮上って来る。
 ――なるほど、洋服を着た人は何処にでもいるし、大きな男も何人もいるかもしれない。そして、中指を怪我《けが》して失った方も、広い東京には何人もいるかも知れない。しかし、この三つの特徴《とくちょう》が三つともピッタリあてはまるというような人が何人もいるものだろうか?
「しかも、この紳士は、極端《きょくたん》なくらい不自然に、四本指の右手を隠しているではないか! そういえば、車室にはいって来た時の態度からして、とてもおかしい!」
 クルミさんは、ブルブルッと身ぶるいした。
 ――恐らくこの紳士《しんし》は、最初車室にはいって来たときに、素早《すばや》くあたりを見廻して、クルミさん一人だけのこの席をみつけると、相手を少女とみくびって、それであんな満足《まんぞく》そうな顔をしたのに違いあるまい。そして、昨夜あんな恐しい仕事をして睡《ねむ》らなかったので、熱海か箱根へ逃げのびる途中で、ついウトウトと、居睡《いねむ》りをしはじめたのに違いない。
 クルミさんは、もうジッとしていられなくなった。が、さりとて声を立てたり動いたりすることはとても出来ない。
 すぐ眼の前の新聞記事によれば、犯人は凶器《きょうき》を持っていたとあるではないか! うっかり声でも立てたなら、どんなことになるかも知れない。
「こっそり車掌《しゃしょう》さんに知らせようか知ら」
 しかし、そんなことをしたとて、無駄である。相手がそのように恐しい男では、却って騒ぎ立てて、平和な旅客《りょきゃく》たちの間に、間違いでも起きたなら、それこそ大変である。いやなによりも、もうクルミさんは、石のようになってしまって、出したくても声も出せなければ、動きたくても、身動きも出来ないのだった。永い時間がたったようだ。
 ジッとしたまま、こわごわ、もう一度新聞を見る。
「沈着《ちんちゃく》なる宿直員の観察《かんさつ》」
 という見出しが、ふと目についた。すると、少しばかり、クルミ[「クルミ」は底本では「 ルミ」と誤植]さんの心の中に、明るいものがみつかった。
「そうだ、落ちつかなければいけない」
 われと己《おのれ》をはげまして、思い切って紳士の顔を見る。
 すっかり居睡《いねむ》りが、本式になったらしい。
 列車は、もういつの間にか、幾つかの駅を通過して、だんだん国府津《こうづ》の町へ近づいて行くらしい。
 ふと、クルミさんは、云いしれぬ恐しさの中から、なんともいえない口惜《くや》しさが、こみあげて来るのを覚えた。
 考えてみれば、大変なことになってしまった。折角の楽しい旅行が、お蔭で滅茶々々《めちゃめちゃ》になってしまった。たださえ、知らない大人の人との同席なぞ、あまり歓迎したくなかった今日の旅行に、こともあろうに恐しい盗賊紳士《とうぞくしんし》の乗合わすなぞとは! ふとまた、クルミさんは、別の考えにとらわれる。
 ――いま、この客車の中に、このように恐しい紳士が乗っていることなぞ、誰も知らないのだ。あたしだけが知っている。このまま知らぬ顔をして、国府津《こうづ》で降りてしまっていいものだろうか?
 ――しかし、それかと云って、どうして、自分のような少女の身で、こんなにふるえているような臆病《おくびょう》さで、このことを人に知らせることなぞ出来ようか?
 遠く、松原の向うに、見覚えのある国府津の山が見えだした。
「そうだ、もう、そろそろ荷物を下して置かなければならない」
 急に我に返ると、クルミさんは、思い切って、静かに立ちあがった。手足がガタガタふるえている。まるで夢の中のしぐさのように、中々網棚《あみだな》の風呂敷包《ふろしきづつ》みが下せない。
 が、やがてとり下すことが出来た。
 紳士は、相変らず居睡《いねむ》っている。
 と、この時、お祝いもののはいったその風呂敷包みを膝《ひざ》の上へ置きながら、ふと、クルミさんの頭の中へ、とてつもない考えがひらめいた。すると、前よりもはげしくクルミさんの手足はふるえ出した。が、その眼は、急にいきいきと輝き出した。
 しばらくクルミさんは、どうしようかと迷っているようであったが、窓の向うに国府津の海が見えだすと、いきなりクルミさんは、制服のポケットの中へ手を突っ込んだ。そして、真紅のリボンのかかった、小さな美しい木箱をとり出した。
 それは、信子さんへのお祝いに、こっそり買求めて来た、あの香水だった。
 クルミさんは、ものに憑《つ》かれたような手つきで、ぶるぶる顫《ふる》えながら、その美しいリボンをほどき、レッテルをはがして、木箱の蓋《ふた》をあけると、中から、円い、可愛い香水の瓶をとり出し、その栓の封を切った。
 クルミさんは、静かに前かがみになった。
 栓を抜いた香水の瓶を、居睡《いねむ》っている紳士のほうへ、ワクワクふるえながら差出し、差出したかと思うと、素早く瓶の口を下へ向けて、紳士の洋服へ、惜しげもなくタラタラと中身を流しつくしてしまった。
 列車は、国府津駅にとまった。
 なおも居睡りつづける紳士を残したまま、クルミさんは、列車をあとにした。そして、駅を出ると、まるで火でも放《はな》ったようなはりつめた顔をして、すぐ駅前の、交番の前へ立ったのである。

       五

 湘南《しょうなん》から伊豆の町々へかけて、警察電話《けいさつでんわ》が、活発な活動をしはじめた。
 小田原《おだわら》から伊東《いとう》に至る十一の停車場の出口には、鋭い眼をした私服のお巡りさんたちが、眼でない、鼻をヒクヒクさせながら、まるで旅客《りょきゃく》のような恪好《かっこう》で、こっそり立ちはじめた。
 ここは、熱海の駅である。
 午前十時四十六分、伊東行きの列車が到着すると、大勢の旅客たちが、広いプラット・ホームになだれ出た。
 その人びとの中に混《まじ》って、一人の異様《いよう》な紳士が――満身にすばらしい香水の匂いをプンプンさした紳士が、右手をスプリング・コートのポケットへ入れたまま、なにかひどく腑《ふ》に落ちかねたような顔つきで、鼻をヒクヒクさせながら、人混《ひとご》みをかきわけるようにして、出口のほうへ歩いて行った。
 人びとは、誰もかも、その紳士の発散する、強い激しい芳香に打たれて、びっくりしたように立ちどまると、不思議《ふしぎ》そうな顔をして、或はあきれたような顔をして、紳士を見返り、見送った。
 すると紳士は、いよいよわけが判らないというような顔をしながら、少からずうろたえはじめ、急にいそぎ足になった。
 と、その体から立ちのぼる芳香《ほうこう》は、自ら捲《ま》きおこした風に乗って、いよいよひろまり、一層多くの人びとが立ちどまって、不思議そうに紳士を見詰《みつ》めはじめた。
 紳士は、泣き出しそうに顔をしかめた。が、急に今度は、真ッ赤になると、歩きながらしきりとなにかブツブツいいはじめた。そして前よりも一層はげしくうろたえはじめ、あわてた足どりで、プラット・ホームから地下道へ、地下道から駅の出口へと、折から爽《さわ》やかな五月の微風《びふう》に、停車場一面ときならぬ香水の嵐をまきおこしながら、かけ出して行った。
 このような紳士が、駅の出口で、さっきから鼻をヒクヒクやりながら、待ちかまえているお巡りさんを、ごまかすことが出来よう筈はない。‥‥

 その晩、東京のお家へ帰ったクルミさんのところへ、警視庁《けいしちょう》のえらいお巡りさんと、××銀行の支配人さんと、それから新聞社の人たちがやって来た。
 写真をとられたり、色々な話を聞かれたりしたあとで、銀行の支配人さんがいった。
「お嬢さん。あなたのお蔭で、私共の銀行は、おお助かりをいたしました。ついては、何かお礼を差上げたいのですが、なにがお望みでしょうか?」
 すると、クルミさんは、一寸ためらってから、こっそりいった。
「そうですの? じゃ、折角ですから、あたしの使ってしまった、あの香水を買っていただきましょうか? だってあたし、あの品を、従姉《いとこ》の信子さんに、お贈りするつもりだったんですもの」
「おやおや、お嬢さん。私共は、もっと沢山のお礼を差上げたいのですよ。それはそれとして、さ、なんでも外にお望みの品を、もうひとつおっしゃって下さい」
 すると、クルミさんは、一寸考えてから、恥かしそうに囁《ささや》いた。
「じゃ、あたし、サンドウィッチをいただきますわ」
[#下げて、地付きで](おわり)



底本:「少女の友」實業之日本社
   1940(昭和15)年5月号
初出:同上
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:金光寛峯
校正:群竹
2002年1月22日公開
2002年1月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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