ポケットへ、何故か右手を絶えず突込んだままでいる。
 最初、紳士は、車室の中へはいって来ると、通路に立ったまま、素早《すばや》く車内を眺めまわし、まだほかにも席がないではないのに、ふと、クルミさんのほうをみると、さも満足したような表情をチラッと見せて、すぐにやって来ると、クルミさんの眼の前の席へ、大きな体で無遠慮《ぶえんりょ》に、黙ったままドシンと腰掛けたのであった。
 そして、笑うでもない、怒るでもない、まるでお面《めん》のような無表情な顔で、クルミさんの顔を、体を、シゲシゲと見るのだ。
 帽子はかむったまま、右手はポケットへ入れたままである。
 クルミさんは、ヒヤリとして、身をすくめると、窓の外へ顔をそむけてしまった。
 列車はいつのまにか、新緑の大森《おおもり》の街を走っている。
 空は、すばらしい日本晴れだ。
 普通ならば、もうこの辺で、そろそろチューインガムを噛《か》みはじめる予定《よてい》だったのに、いまはそれどころではない。
「折角の楽しみも、これですっかりオジャンだわ」
 クルミさんは、横顔のあたりに紳士《しんし》の気味悪い視線《しせん》を感じながら、ひそかに溜息《ためいき》をついた。
 やがて紳士は、クルミさんのほうから顔をそらすと、窓の方を背にして、横向きになった。そして、コートの左のポケットから左手で新聞をとり出すと、相変らず右手はポケットへ入れたまま、不自由そうに片手で新聞をひろげて、それを顔の上へかぶせるようにしながら、熱心に読みはじめた。
 窓の外を見ていても、クルミさんには、その動作がよくわかるのである。
 時々、窓から流れ込む爽やかな風に吹かれて、新聞が、ペラペラと鳴る。すると紳士《しんし》は、その都度顔をしかめて、こちらを見る様子である。
「窓をしめなければ、いけないかしら」
 クルミさんはそう思った。
 しかし、どうしたものか、妙にからだがすくんでしまって手が出せない。だいたい、この紳士が乗り込んで来てからは、まだ、身動きひとつしていないクルミさんである。それに、窓をしめるとすれば、どうしても、紳士の頭のうしろへ片手を持って行かなければならない。そう思うと、いよいよ固くなってしまうのだった。
 突然、紳士が立ちあがった。
 そして、窓から外を見ているクルミさんにはものも云わず荒々しい調子で、硝子窓をしめてしまった。
 クルミさんは、ハッとなって身を退《ひ》いた。
 紳士の不機嫌《ふきげん》が、クルミさんの心を鞭打《むちう》ったのだ。が、そればかりではない。もう一つ大きな理由があったのだ。クルミさんは、紳士の右手を、はじめて見たのである。
 誰でも知っているように、汽車の窓をしめるには、必ず両手を使わなければならない。それで、今、立ちあがった紳士も、この時はじめて右手をポケットから出して、両手で窓をしめたのであるが、丁度《ちょうど》その右手が、窓の外を見ているクルミさんの顔の前へ来てとまった。が、窓がしまると、素早《すばや》く紳士はその手を引ッこめて、ポケットへ入れ、再び前の姿勢になって、新聞を読みはじめたのだ。
 しかし、その短い間に、クルミさんは、紳士の右手を見てしまった。
 [#底本では、改行行頭のアキ、脱落]その手は、中指が根元《ねもと》からなくて、四本指である。
「ああ、傷痍軍人《しょういぐんじん》の方か知ら?」
 瞬間、クルミさんはそう思って、みるみる身内《みうち》が熱くなった。
「もしそうだったなら、あたしはなんて愚かな少女だろう。そういう立派なお方と、同席したことを不愉快に思っていたなんて!」
 しかし、すぐにクルミさんの頭の中には、ムラムラとひとつの疑惑《ぎわく》が持上った。
「でも、もし軍人さんだったなら、どうしてそのように貴い御負傷を、こんなに不自然にお隠しになるのだろう?」
 ――そうだ、たとい、軍人さんでなくって、普通にお怪我《けが》をなさった方にしても、こんなに不自然な、隠《かく》されかたをされる筈はない。
 クルミさんは、そう思うと、なんだか前よりも体が引きしまるような気がして、一層小さくなりながら、硝子越しに、ひたすら窓の外を見詰めつづけるのだった。

       三

 間もなく列車は、横浜《よこはま》を過ぎた。
「ひょっとすると、横浜で下りてくれるかも知れない」
 そう、ひそかに心の中で思っていたクルミさんの望みも、すっかり裏切られて、紳士は、相変らずクルミさんの眼の前にいる。それどころか、読みかけの新聞を、帽子をかむったままの顔の上へ乗せるようにしたまま、どうやら居睡《いねむ》りでもはじめたらしく、軽い鼾《いびき》が聞えて来る。この分だと、何處まで行くか知れない。ひょっとすると、国府津よりも向うの、小田原《おだわら》か、熱海あたりまで行くのかも知れない。
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