、煙草屋の前には、弥次馬らしい人影が、幾人もうろうろしていた。「青蘭」には、階上《うえ》にも階下《した》にもかなりに客が立てこんでいて、それがみんな煙草屋の幽霊の噂をしているのだった。
白い上着に蝶ネクタイを結んだ西村|支配人《バー・テン》は、愛想よく警部達を迎え、二階へ案内すると、表の窓際に近い席をすすめて、女達に飲物を持って来させたりした。が、警部は最初から苦り切っていて、ろくに口もきかず、胡散臭《うさんくさ》げに支配人《バー・テン》のすること為《な》すことを、ジロジロ覗《うかが》っていた。
窓越に見える直ぐ前の煙草屋の二階には、死体はもう解剖のために運ばれて行ったので、普段と変《かわり》なく、スリ硝子《ガラス》のはまったその窓には、電気が明るくともっていた。
「実は、なんです」支配人《バー・テン》が口を切った。「……下手に御説明申上げたりするよりは、いっそ実物を見て頂いたほうが、お判り願えると思いまして」
「いったい君は、何を見せるつもりなんだね?」
警部が、疑い深げに問返した。
「ええ、その……私のみつけ出した、幽霊なんですが」
すると警部は遮切《さえぎ》るようにして、
「じゃア君は、もう澄子を殺した犯人を、知ってると云うんだね?」
「ええ大体……」
「誰なんだね? 君は現場を見ていたのかね?」
「いいえ、見ていたわけではありませんが……あの時には、もう房枝さんは殺されていたんですから、あとには二人しかいないわけでして……」
「じゃア君子が殺したとでも云うんかね?」
警部は嘲けるように云った。
「いいえ違いますよ」支配人《バー・テン》は烈しく首を振りながら、「君ちゃんは、もう貴方《あなた》がたのほうで、落第になってるじゃアありませんか」
「じゃアもう、誰もないぜ」
警部は投げ出すように反《そ》りかえった。
「あります」と西村青年は笑いながら、「澄ちゃんがあるじゃアないですか」
「なに澄子?」
「そうです。澄子が澄子を殺したんです」
「じゃア自殺だって云うんか?」
「そうですよ」とここで西村君は、ふと真面目な顔をしながら、「皆んな、始めっから、飛んでもない感違いをしていたんですよ。死んでしまった後から発見《みつけ》たんなら、こんなことにもならなかったでしょうが、なんしろ、自分で自分の笛を掻き切って、もがき死にするところを、その藻掻《もが》き廻るところだけを見たもんですから、自殺の現場を、他殺の現場と感違いしてしまったんですよ。……私の考えでは、恐らく房枝さんを殺したのも、澄子だと思うんです。つまり、昨晩あの時の房枝の折檻が、痴話喧嘩になり、揚句の果てに房枝を絞め殺してしまった澄子は、正気に返るにつれて、自分のしでかした逃れることの出来ない恐ろしい罪を知ると、ひとまず房枝の死体を押入に隠して……これは多分、十一時になって君子が二階へ上って来る危険を覚えたからでしょうか……それから悶々として苦しんだ揚句、とうとう自殺してしまったんでしょう。つまり、最初あの房枝の死体のみつかった時に、貴方がたのお考えになった事の逆になるわけですよ。だから、あの断末魔の澄子が、房枝の名を呼んだと云うのも、自分を殺した人の名を呼んだのではなくて、自分が殺してしまった人の名を、悔悟にかられて叫んだ、とまア、そう私は考えるんですよ」
「冗談じゃアないぜ」警部がとうとう吹き出してしまった。「すると君は、あの時、ホラそこにいる女給さん達が見た、あの無地の着物を着て、剃刀を持って、ガラス窓によろけかかった女を、房枝ではなく澄子だと云うんだね?……飛んでもない、それこそ感違いだよ。いいかい。まず第一、着物のことを考えて見たまえ。房枝はあの通り地味な着物を着ていたし、澄子は、あの通り派手な着物を着ていたし……」
「お待ち下さい」支配人《バー・テン》が遮切った。「つまり、そこんとこですよ。幽霊が出たと云うのはね……もう仕度が出来たと思いますから、これからひとつ、その幽霊の正体をみて頂こうと思いますが……」とむっくり起き上りながら、「……まだお判りになりませんか? 銀座の真ン中に出た幽霊の正体が……これはしかし、あの事件の起きた時の様子や、家の構えなどを、よく考えて見れば、誰にでも判ると思うんですが……」
支配人《バー・テン》はそう云って、意地悪そうに笑うと、呆気《あっけ》にとられている警部達を残して、階下《した》へ降りて行った。が、直ぐに自転車用の大きなナショナル・ランプを持って引返して来ると、窓際に立って警部へ云った。
「じゃア幽霊をお眼に掛けますから、どうぞここへお立ち願います」
警部は脹《ふく》れ面《つら》をして、支配人《バー・テン》の云う通り窓際へ立った。いままで、遠慮して遠巻にしていた女給や客達も、この時ぞろぞろと窓の方へ雪崩《なだ》れよって来た。支配人《バー・テン》が云った。
「お向いの窓を見ていて下さいよ」
三間ばかり前のその煙草屋の二階の窓には、その時はまだ前と同じように静かに灯《あかり》がともっていたのだが、やがてその部屋の中に人の気配がすると、窓|硝子《ガラス》へ人影がうつった。
こちらの人びとは、何事が始まるだろうと思わず身を乗り出すようにして見詰めていると、窓の影法師は大きくゆらめいて、手を差しのべ、途端にパッと電燈が消えた。
「いいですか。あの時は影法師の主が、ゆらめいた途端に電気にぶつかって、やはりこんな風に暗くなったんですね」
しかし支配人《バー・テン》のその言葉の終らぬうちに、向いの窓が、内側からガラガラっとあけられると、そこから、昨晩人びとの見たと同じような、殆んど無地とも見える黒っぽい地味な着物を着た女の後姿が、白いうなじを見せて暗《やみ》の中にポッカリ現れた。途端に支配人《バー・テン》が、持っていたナショナル・ランプの光を、その女の背中に投げかけた。と、なんと今まで、殆んど無地とも見える黒っぽい着物を着ていた年増女の姿が、不意に、黒地に思い切り派手な臙脂《えんじ》の井桁模様を染めだした着物を看た、若い娘の姿に変ってしまった。
「君ちゃん。ありがとう」
支配人《バー・テン》が、向うの窓へ呼びかけた。すると窓の女は、静かにこちらを向いて淋しげに微笑んだ。君子の顔だった。
「ご覧になったでしょう。……いや、君子さんと、あの着物は、ちょっとこの実験のために拝借したんですよ」
支配人《バー・テン》はそう云って振返ると、呆気にとられている警部の顔へ、悪戯《いたずら》そうに笑いかけながら、再び云った。
「まだ、お判りになりませんか?……じゃア、申上げましょう。……いいですか、こう云う事を一寸《ちょっと》考えて見て下さい。例えばですね、赤いインキで書いた文字を、普通の色のないガラスで見ると、ガラスなしで見ると同じように赤い文字に見えるでしょう? しかし、同じように赤いインキで書いた文字を、今度は赤いガラスを通して見ると、赤い文字は何も見えませんよ。……恰度、あの写真の現像をする時にですね……私は、あれが道楽なんですが……赤い電気の下で、現像に夢中になっていると、不意に、直ぐ自分の横へ確かに置いた筈の赤い紙に包んだ印画紙が、どこかへ消えてしまって、すっかり面喰《めんくら》ってしまうことがよくありますね。びっくりして手探りで探してみると、チャーンとその何にも見えないとこで手答えがあったりして……ええ、あれと同じですよ。ところが、今度はその赤いガラスの代りに、青いガラスを通して赤インキの文字を見ると、前とは逆に、黒く、ハッキリと見えましょう?……」
「ふム成る程」警部が云った。「君の云うことは、判るような、気がする、がしかし……」
「なんでもないですよ」と西村|支配人《バー・テン》は笑いながら続けた。「じゃ、今度は、その赤インキの文字を、紅色の、臙脂《えんじ》色の、派手な井桁模様の着物と置き換えてみましょう。すると、普通の光線の下では、それは臙脂の井桁模様に見えましょう? ところが、いまの赤インキの文字の例と同じように、一旦青い光線を受けると、その臙脂の井桁模様は暗黒い井桁模様になってしまいます。黒い井桁模様になっただけならいいんですが、その井桁模様の染め出された地の色が黒では、黒と黒のかち[#「かち」に傍点]合いで模様もへちま[#「へちま」に傍点]もなくなってしまい、黒い無地の着物とより他に見えようがありません」
「しかし君。電燈は消えたんだぜ」
「ええそうですよ。あの部屋の中の普通の電燈が消えたからこそ、一層私の意見が正しく現れたんです」
「じゃア、青い電燈が、その時いつの間についたんかね?」
「え? そいつア始めっからついてたですよ。その時にパッとついたんでしたなら、誰にだって気がつきますよ。つまり、その時に青い電燈が始めてついたんではなくて、向うの部屋の普通の電燈が消えた時に、始めていままでついていた青い電燈が、ハッキリ働きかけたんです。だから、この窓にいた人たちは、少しも気づかなかったんですよ」
「いったいその、青い電燈はどこについてたんです」
「いやもう、皆さんご承知の筈じゃアありませんか!」
警部はこの時、ハッとなると、支配人《バー・テン》の言葉を皆まで聞かずに窓際へかけよった。そして窓枠へ手を掛け足を乗せると、外へ落ちてしまいそうに身を乗り出して、上の方を振仰いだが、直ぐに、「ウム、成るほど!」と叫んだ。
「青蘭」のその窓の上には、大きく「カフェ・青蘭」と書かれた青いネオン・サインが、鮮かに輝いているのだった。
「しかし、それにしても、よくまアこんな事に気がついたね?」
あとでビールを奢《おご》りながら、警部は支配人《バー・テン》にこう尋ねた。若い支配人《バー・テン》は、急にてれ臭そうに笑いながらいった。
「いや、なんでもないですよ。……第一私なぞ、こんな幽霊現象なら、いつもちょっとしたやつを見て暮しているんですからね」と女給達のほうを顎でしゃくりながら、「この連中、昼と夜では、同じ着物もまるで違っちまうんですからね……これも一種の、銀座幽霊ですよ……」
[#地付き](「新青年」昭和十一年十月号)
底本:「とむらい機関車」国書刊行会
1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」博文館
1936(昭和11)年10月号
初出:「新青年」博文館
1936(昭和11)年10月号
入力:大野晋
校正:川山隆
2007年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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