いしか時間がない。その間に君子が着ていた母の着物を脱いで、それを再び母の死骸へ着せるなぞと云うことは到底出来っこない。
では、母の着ていた着物ではなしに、他の同じような黒っぽい、三、四|間《けん》離れたら無地に見えそうな地味な着物を着て、芝居を打ったとしたならどうなる? これは出来そうなことだ。そこで警官達は、煙草屋の徹底的な家宅捜査を行った。ところが、そのような着物は、わずかに箪笥の抽斗《ひきだし》から房枝のものが二、三枚出て来ただけであったが、しかしそれは皆、虫除け薬を施してキチンと文庫紙の中に畳みこんであって、とうてい三分や四分の早業でそうと出来るものではない事が判った……いや、それでなくたって、もしも君子が犯人であったとしても、それならば澄子が死際に残した房枝の名前はいったいどうなる……どう考えたって、澄子を殺したのは、君子なぞではありっこない……。
警察は、とうとうその夜の捜査を投げ出してしまった。
翌日になると、果して新聞は一斉に幽霊の出現説をデカデカと書き立てた。警察は、ヤッキになって、前と同じようなことを、蒸し返し調べたてた。新しい収獲と云えば、兇器に使われた例の剃刀を鑑識課へ廻した結果、その剃刀は柄が細くてハッキリした指紋が一つも残っていない事と、達次郎を引立てて調べた結果、達次郎がいつの間にか澄子と出来合っていて、そのために家の中が揉め合っていた事なぞが、判明したに過ぎなかった。
ところが、そうして警察が五里霧中の境を彷徨《さまよ》いはじめようとするその日の夕方になって、ここに突然奇妙な素人探偵が現れて、係りの警察官に会見を申し込んで来た。
それは、「青蘭」の支配人《バー・テン》で、西村《にしむら》と名乗る青年だった。ガリガリベルを鳴らして、せわしげに電話を掛けてよこした。
「……もしもし、警部さんですか。私は『青蘭』のバー・テンですが、幽霊の正体が判りました。澄子さんを殺した幽霊犯人の正体が、判ったんですよ……今晩こちらへお出掛け下さいませんか?……ええ、その折お話しいたします……いや、幽霊をお眼に掛けます……」
三
「青蘭」の二階へ、部下の刑事を一人連れてその警部がやって来た時には、もう辺りはとっぷり暮れて、昨夜の事件も忘れたように、横町は明るく、ジャズの音《ね》に溢れていた。が、流石に物見高い市中のこととて
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