断りいたしておきますが、御承知の通りこの辺一帯の海岸は高い崖になっておりまして、此処から凡《およ》そ一丁半程の西に、一段高く海に向って突出した普通に梟山《ふくろやま》と呼ぶ丘が御座居ます。恰度妾が家を出て二三十歩き掛けた頃で御座居ました。雑木林の幹と幹との隙間を通じて、梟山の断崖の上でチラリと二人の人影が見えたのです。何分遠方の事で充分には判り兼ねましたが、ふと何気なく注意して見ますと、その一人は外ならぬ主人なので御座居ます。が、他の一人は主人よりずっと小柄の男で、も一人の証人が申される通り水色の服をきていた様で御座居ますが、これが一向に見覚えのない、と申しますより遠距離で容貌その他の細かな点が少しもハッキリ見えないので御座居ます。妾は立止った儘《まま》ジッと目の間から断崖の上を見詰めていました。――すると、突然二人は争い始めたので御座居ます。そして……それから……」
 夫人はフッと言葉を切ると、そのまま堪え兼ねた様に差俯向《さしうつむ》いて了《しま》った。
「いや、御尤《ごもっとも》です。――すると、兇行の時間は、十時……?」
 大月が訊《たず》ねた。
「ええ。ま、十時十五分から二十分頃迄だろうと思います。何分、不意に恐ろしい場面を見て、すっかり取のぼせて了いましたので――」
 恰度この時いつの間にかやって来た例のカイゼル氏が、二人の会話に口を入れた。
「――つまり奥さんは、もう一人の証人である百姓の男に助けられる迄は、その場で昏倒《こんとう》していられたんです」
 で、大月はその方へ向き直って、
「すると、その百姓の男と言うのは?」
「つまり奥さんと同じ様に、兇行《きょうこう》の目撃者なんですがな。――いや、それに就《つ》いて若し貴方がなんでしたなら、その男を呼んであげましょう。……もう、一応の取調べはすんだのだから、直ぐ近くの畑で仕事をしているに違いない」
 親切にもそう言って警官は出て行った。
 大月は、それから夫人に向って、この兇行の動機となる様なものに就いて、何か心当りはないか、と訊ねた。夫人はそれに対して、夫は決して他人に恨みを買う様な事はなかった事。又この兇行に依って物質的な被害は受けていない事。若しそれ等以外の動機があったとしても、自分には一向心当りがない事。等々を答えた。
 軈て十分もすると、先程の警官が、人の好さそうな中年者の百姓を一人連れて来た。
 大月の前へ立たされたその男は、まるで弁護士と検事を勘違いした様な物腰でぺこぺこ頭を下げながら、素朴な口調で喋り出した。
「――左様で御座居ます。手前共が家内と二人でそれを見ましたのは、何でも朝の十時頃で御座居ました。尤も見たと言いましても始めからずうと見ていたのではなく、始めと終りと、つまり二度に見たわけで御座居ます。始め見たのは殺された男の方が水色の洋服を着たやや小柄な細っそりとした男と二人で梟山の方へ歩いて行ったのを見たんで御座居ますが、何分手前共の仕事をしていました畑は其処から大分離れとりますし、それに第一あんな事になろうとは思ってませんので容貌《かお》やその他の細《こまか》な事は判らなかったで御座居ます」
「一寸、待って下さい」
 証人の言葉を興味深げに聞いていた大月が口を入れた。
「その水色の服を着た男と言うのは、オーバーを着てはいなかったのですね。――それとも手に持っていましたか?」
 そう言って大月は百姓と、それから夫人を促す様に見較べた。
「持っても着てもいませんでした」
 夫人も百姓も同じ様に答えた。
「帽子は冠《かむ》っていましたか?」
 大月が再び訊ねた。この問に対しては百姓は冠っていなかったと言い、夫人は良くは判らなかったが若《も》し冠っていたとすればベレー帽だろう、と述べた。すると百姓が、
「や、今思い出しましたが、その時、殺されたこちらの旦那は、小型の黒いトランクを持っていられました」
「ほう。――」大月はそう言って夫人の方を見た。夫人は、そんなものを持って直介が散歩に出た筈はないし、又全然吾々の家庭には黒いトランクなどはない、と答えた。
「成程、では、貴方《あなた》が二度目に二人を見られた時の事を話して下さい」
 大月に促されて、再び証人は語り続けた。
「――左様で御座居ます。二度目に見ましたのはそれからほんの暫く後で御座居ましたが、急に家内の奴が海の方を指差しながら手前を呼びますので、何気なくそちらを見ると、雑木林の陰になってはっきりとは判らなかったので御座居ますが、こちらの奥さんも仰有《おっしゃ》った通り、梟山の崖ッ縁で、何でも、こう、水色の服を着た男がこちらの旦那に組付いて喧嘩してたかと思うと、間もなくあっさり[#「あっさり」に傍点]と旦那を崖の下へ突墜《つきおと》して、それから一寸《ちょっと》まごまごしてましたが、例の黒
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