の係の方の指紋以外に、被害者の指紋が検出されない限り無力です。従って、瓦斯注入口《ガスゲート》の金具又はロープを手で押さえながら瓦斯《ガス》の補充を行っていた被害者は、瓦斯《ガス》が充満されバルーンの浮力が増大するに従って、初めて捲取機《ローラー》を使用しなかった過失に気附いたのです。多分非常に驚いた彼は、急いでロープを捲取機《ローラー》の何処かへ引っ掛けて、バルーンの上昇を牽制《けんせい》しようとあせった事でしょう。が、浮力の増したバルーンは、瓦斯《ガス》のホースを投げ離し、弁を開けっぱなしたまま容赦なく上昇を始めます。被害者は夢中でその上昇を牽制する。自分の体を引き揚げられない様に注意しながら、ロープを握った両手に力を加える。が、太い粗雑なそのロープはいたずらに彼の掌中に無数の擦過傷を残したまま、どんどん延び揚《あが》って行きます。切り抜きの広告文字《サイン》ももう飛び揚ってしまった頃、前に被害者の犯した過失が、ここで恐るべき結果を齎《もた》らします。即ち、被害者の足元に手繰り取られ、蜷局《とぐろ》を巻いていたロープが、大騒ぎをしている被害者の体へ、自然と絡み附いたのです。勿論、彼は夢中で格闘を続けます。が、ロープは彼の体の所々、例えば肩、下顎部、肘等の露出個所に無数の軽い擦過傷を与え、寝巻の一、二個所を引き裂いて、更に頸部と胸部に絡み附きます。動きの取れなくなった被害者の体は、そのまま天空《そら》へ引っ張り揚げられます。バルーンが惰性的に上昇し切ってロープが強く張り切った時に、彼の呼吸は止まり、肋骨は折れ、頸部の皮膚は擦り破れて出血する。野口達市君は、文字通り天国へ登ったのです。さて――」
 喬介は、先程私の渡したノートに眼を遣《や》り、
「午前零時から二時半までに、東京地方を通過している753粍《ミリ》の低気圧と西南の強風は、バルーンを垂直上昇線から東北方へ押し出します。穴の明いていたバルーンは、低気圧の通過と相俟《あいま》って、ようやくその浮力を減じ、ロープの緊張は弛《ゆる》んで被害者の屍体は振り墜されます。デパートの屋上へではないのですよ。デパートの東北の露路《ろじ》のアスファルトの上へです。屍体が振り墜された時の震動に依って、気嚢の内底部に押し込んであった首飾の一つが、弁を開けっぱなされたままの瓦斯注入口《ガスゲート》から、死人の後を追います。最後に、
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