瑣《はんさ》なる階級の差等《さとう》、「御《おん》」とか、「せさせ給ふ」とかいう尊称語を除いてみれば、後世の型に囚《とら》われた文章よりも、この方が、よほど、今日の口語《こうご》に近い語脈を伝えていて、抑揚|頓挫《とんざ》などという規則には拘泥《こうでい》しない、自然のままの面白味が多いようだ。
 しかも時代の変遷はおのずから節奏《リトム》の変化を促し、旋律《メロデイ》は同じでも、拍子《テムポオ》が速くなる。それ故に古の文章に対《むか》う時は、同じ高低、同じ連続の調子が現われていても、何となく間が延びているため、とかく注意の集中が困難であり、多少は努力なくては、十分に古文の妙を味《あじわ》えない。
 古文の絶妙なる一部分を詞華集《アントロジイ》に収めて、研究翫味する時は、原文のほうが好かろう。しかし全体としてその豊満なる美を享楽せんとするには、一般の場合において、どうしても現代化を必要とする。与謝野夫人の新訳はここにその存在の理由を有していると思う。
 従ってこの新訳は、漫《みだり》に古語を近代化して、一般の読者に近づきやすくする通俗の書といわんよりも、むしろ現代の詩人が、古の調《ちょう》を今の節奏《リトム》に移し合せて、歌い出た新曲である。これはいわゆる童蒙のためにもなろうが、原文の妙を解し得る人々のためにも、一種の新刺戟となって、すこぶる興味あり、かつ稗益《ひえき》する所多い作品である。音楽の喩《たとえ》を設けていわば、あたかも現代の完備した大風琴を以って、古代聖楽を奏するにも比すべく、また言葉を易えていわば、昔名高かった麗人の俤《おもかげ》を、その美しい娘の顔に発見するような懐しさもある。美しい母の、さらに美しい娘 O matre pulchra filia pulchrior (Hor, Carm. i 16) とまではいわぬ。もとより古文の現代化には免れ難い多少の犠牲は忍ばねばならぬ。しかしただ古い物ばかりが尊いとする人々の言《げん》を容《い》れて、ひたすら品《ひん》をよくとのみ勉め、ついにこの物語に流れている情熱を棄てたなら、かえって原文の特色を失うにも至ろう。「吉祥天女を思ひがけんとすれば、怯気《おぢけ》づきて、くすしからんこそ佗しかりぬべけれ。」予はたおやかな原文の調《ちょう》が、いたずらに柔軟微温の文体に移されず、かえってきびきびした遒勁《しゅうけい》の口語脈に変じたことを喜ぶ。この新訳は成功である。
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明治四十五年一月
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[#地から2字上げ]上田敏



底本:「源氏物語上巻 日本文学全集1」河出書房新社
   1965(昭和40)年6月3日初版発行
   1971(昭和46)年7月15日24版発行
入力:めいこ
校正:もりみつじゅんじ
ファイル作成:
2005年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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