指物師の工場に、惡戯口《いたづらぐち》を浴せかける大工の姿も、冬は障子に圍まれて心安く、ぱつと燃えたつた鉋屑の火が、障子一ぱいになつて、凍つた道を照す時など、むらむらと暖い感情が湧いてこのままのこの思ひを書いておくるに適當した誰かに、この感情をそのまま書いて送りたいと思ふ。それも併しまた陽炎のやうに消えて、日々の營みに追ひつかれまいとあせつてゐるやうな、餘裕のない家内の空氣に息づまるやうな思ひをした。
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といふやうに、寒い國に青春時代をむかへた娘の心理に深く觸れ、其時代の空氣をよく現はしてゐる。そして女塾の友達に別れ心を張りつめて上京した彌生は、しばらくして後、白石初子に短い手紙を送つてゐる。
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「お手紙ありがたうよ、一ちやんのお寫眞もたしかに。そのうち悉しく御返事を書きます。ただ涙がこぼれます。」
ただこれだけで、感謝の意味で涙がこぼれるといふのか、または自分の身に關して泣けるといふのか、お粂には一寸わけがわからなかつた。
筆蹟といふものに殊に氣を付けた彌生の字とは思へない程字が亂れてゐた。
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 そこで此「娘」の一篇は結ばれてある。如何にも年頃を今すぎやうとしてゐる娘たちの時代を、明治四十年前後の時代を何の説明なしによく書いてゐる事が、私は此作を實に高く買ふのである。其時代婦人の自覺が社會的に警鐘を鳴らし、女性の次ぎの時代へ進まうとして精神的に苦しみ惱んだ時代である。たしかにこれは日本女性史上特筆すべき時代と思ふ。その時代の婦人を巧に寫し得た此作はお貞さんの代表作であり、同時にあの時代の女性の聲であつたかもしれぬ。
 有島さんが三期に分けてお貞さんの作を批評された、そこでこれは第一期の作の終りと思ふ。それから第二期に入つて「作者はなるべく自己の生活をバツク・グラウンドに追ひやつて、世相を輕い熱度を以つて取扱つて、そこに作者の哲學をほのめかさうとしたやうに見える」といはれたのは、お貞さんは堅實に自然主義作家として師に示された創作の道を一度それだした事があつた。文壇が自然主義から人道主義に移つていつた時代であつた。田山花袋とか徳田秋聲とかいふ大家の前に武者小路實篤氏の一派が濃い影をうつし出した時代である。お貞さんはそれにもすぐ行かれるといふんではなく、又作風でもなかつた。そこでしばらくたじろぎをしてゐた。其頃お貞さんは結婚した。結婚がお貞さんを心理的に今までのやうな客觀描寫では滿足させぬものをもたらせた。それから思ひもかけぬ病床につきそれまで健康すぎる程健康者であつた強氣のお貞さんを精神的にかへてきた。およそ「神」について笑つて居られた固い心の態度が自然に神を呼び神にすがるといふやはらか味をも解し得るやうになつて行つた。「嘘をつく日」「道」「一樹のかげ」「神樂阪の半襟」などおどろくほど、自然主義作家時代のお貞さんとして考へてもみられないやうな作がつづいた。それは皆お貞さんの眞實の藝術であつた。自分はそれを信じ且つ深く頷く、うなづきつつどこか不滿なものがある。其言ふところがまだ充分に板についてゐない何かぴつたりとしないものを感じるのである。たとへば歌舞伎役者が新派の芝居に出たやうな、わざとらしさを感ずるのは一體どうした譯であらうか、其頃は私も病人でいろいろの事情からお貞さんとも遠くなつてゐた頃で、此事については何んとも言はれぬのであるが、私は惜しんでゐた。無理をしては駄目よ、といふ友人として言ひたい事もあつたけれども私は自分の病氣にかまけて手紙も出せずに日がすぎて行つた。そしてお貞さんの訃を聞いて間もなく文章世界に掲載された「醉ひたる商人」の一篇をよんで私は大へんに安心し又喜び、お貞さんに言ひかけたくなつてゐた。然しお貞さんは其時はもう世を去つて幽明世界をへだてる人となつてゐたのである。それにしても此最後の作はお貞さんの本來の面目にかへり、徹頭徹尾のお貞さんの作であり、且つ自ら前期の作に不足してゐた情緒を加へ、味深くこなれた、そして進歩のあとのいちじるしく見える進んだ作であつた。有島さんが「第三に至つて作者は再び嚴密に自己に立還つて來た。」といはれたのは、或は此點ではないかと直覺されるものがある。「醉つた商人」が自分の恩になつた本家の主人の死の床に參じた思ひ出を、泣きつつ其家に行つて諄く語るところにうまさがあり、しんみりした味が出てゐる。説明をしないで、哲學をほのめかさないで、自然にしんみりした味を出してゐる。實に氣持よい進歩のあとを最後の作に示して世を去つたお貞さんの爲に、私はかぎりなく讃辭を送りたい。



底本:「明治文學全集82 明治女流文學集(二)」筑摩書房
   1965(昭和40)年12月10日発行
底本の親本:「日本女流文學評論 中世・近世篇」明
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