節も同じ一つの社会に咲く花なのである。つまり映画の質を規定するものは、半分はそれを作る人であるが、他の半分はそれを作らせる社会である。したがつて映画を引き上げることの本当の意味は、映画と同時に、その映画をささえている観客一般の文化の質を引き上げることでなければならぬ。
少なくとも、私の見解はそうであるし、一面、今までの映画の歴史はそれを証明してあまりがあると思う。ここにこの問題の大きさと、はかり知れぬ重量があり、選ばれた何人かの人々の相談のみをもつてしては容易に片づけにくい理由があると思う。これからさき、この問題はいつたいどうなるのであろう。簡単な問題ではない。
次に量の問題であるが、日本国内で、劇映画、年四十八本製作という数字は決して過少ではないと思う。このうち、例年のとおりベスト・テンを選ぶとすれば、なお三十八本の平凡作が残る。少なくとも四十八本全部見逃せない作品ばかりだというようなことは残念ながらちよつと考えにくい。つまり質本位に考えるならば四十八本大いに結構といわなければならぬ。
しかし、今まで一本かりに五万円平均の撮影費だつたのが、本数が四分の一になつたから、今後は二十
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