た以上、これ以上|荏苒《じんぜん》日を虚《むな》しうすることはできないから、このうえは官庁側においてもいま一歩積極的に出て、業者とともに悩み、ともにはかり、具体的な解決策を見出すだけの努力と親切とを示してもらいたい。あるいはすでに実行案があるならば、一刻も早く、それを提示して指導の実をあげてもらいたい。
事変以来、官庁側の民間に対する指導方式の中には、「禁止しないが、自発的に取りやめろ」とか、「方法はそちらで考えろ」とかいう持つて廻つた表現がとみに多くなつた。これはおそらくあたうかぎり民間との摩擦を少なくするための心づかいだろうとは察せられるが、しかし、民間の側からいえば、このような表現の中にかえつて何か怜悧すぎる、親しみにくいものを感じ取つているのではないかと思う。
もつと専制的でもいい、もつと独裁的でもいいから、だれかがはつきり責任をもつて、指導、あるいは命令してくれること、そして、その人の責任において示された方針や、保証された自由は、わずかな日数の間にひつくりかえつたりは決してしないところの、安心してもたれかかつて行けるような制度が、いま最も要望されているのではないだろうか。
なお、今度のような重大な問題の討議にあたつて、一度も、そして一人も従業員代表が加えられていないことをだれも怪しみもせず不当とも感じていないらしいのは、はなはだ不可解であるが、私はそれを憤るよりもまえに、むしろ、反対に従業員側の反省をうながしたい気持ちである。すなわち、かかる大事の場合に従業員というものの存在が、このように無視され、しかもだれもそれを不思議とも思わないほど無関心な空気をはびこらせてしまつた責任をだれかが負わなければならないとしたら、それは結局従業員自身よりほかにはないということを、よく認識してもらいたいのである。
いつたい今までだれが映画を作つてきたのだ。だれが映画を愛し、映画を育ててきたのだ。実質的な意味では、それはことごとく従業員のやつたことではないか。ことに事変以来、いかにすれば政府に満足を与え、同時に自分たちも国民としてあるいは芸術家として満足するような作品ができるかという点に関し、真に良心的に悩んできたものは、従業員のほかには決してありはしないのだ。しかも、自分たちの、そのような純粋な意欲が、多くの場合、板ばさみの苦境によつてゆがめられ、殺されてしまう悩み
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