あるが、この方法は法律的にも経済的にも心理学的にも障害が多くて実行が困難であり、あまつさえもしもこちらより向こうのほうが強い場合には物理学的困難にまで逢着しなければならぬ不便があるため、残念ながら我々はこの方法を放擲せざるを得ないのである。
 ところが事実において今日相当の年配と教養とを一身に兼ね備えた紳士階級、すなわち我々にとつては理想的の獲物であるところの諸氏はほとんど例外なしに『中央公論』の愛読者であると同時に、我々の作る映画はこれを「見ない先にすでに感心しない」ところの嗅覚の異常に発達した連中である。
 我々は見ない人たちを目標にして、映画を作る自由を持たない。我々の作る映画は要するに始終見てくれる人々に見せるためのものでしかない。
 見ない人たちがある日極めて例外的に我々の映画を覗いてみて、何だくだらんじやないかと憤慨しても、それは我々のあえて意に介しないところである。文中おもしろいとかつまらないとかいう語が随所に出てくるはずであるがそれらの語の標準を奈辺においているかは右によつておのずから明らかであろう。

 さてどうせ日本のトーキーがおもしろくないことを問題にするからには
前へ 次へ
全19ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング