てこの種の制限がはるかに減少するときがきたとしても、トーキー俳優にとつて発声法の習練が何より大切であることにかわりはない。なぜならば観客は語のわかりにくい発声を努力して聞き分けながら映画を楽しむだけの雅量を持つていないだろうし、同じくわかりやすい発声のうちでも特に耳に快く響く流麗なものにひかれるであろうから。
 現在の映画俳優は発声に関するかぎり未熟というよりもまつたく無教養であるといつていい。しかも著名な俳優の大部分は無声映画時代の好運にあまやかされて泰平の夢をむさぼるになれているから、いまさら年期を入れ直して勉強を始めるような殊勝さは持ち合していないように見受ける。
 そこでまず当分の間は、すなわちトーキー俳優として立派な成績を示す人々が出そろうまでは日本のトーキーはある程度以上におもしろくならないということになる。

 次にトーキーになつてから録音に関する部署を受け持つ人たちが新たに加わつたわけであるが現在のところではこの人たちに対する選択がまつたく行われていない。我々の見解ではこの部署を受け持つにはかなり高度の才能を要求したいのであるが、現在のところでは才能もへちまもない。要す
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