人がほめてはくれない。見物から金を取つてトーキーを上映するからには原音どおり再生できる機械を備えるのが館として当然の義務である。もし何らかの事情でそれをやる能力がない場合には経営を断念すべきである。やめもしないかわりに音も聞かせないというのはもはや実業の域を脱している。それはむしろ招魂祭の見せ物に近きものである。

 ロシヤには俳優の出ない映画などもできているが、日本の興行価値を主とする映画で俳擾の出ない写真というのは目下のところではまずない。作者なり監督なりが直接見物に話しかけるということはないので、すべて俳優の演技を介してものをいうのであるから、俳優の演技というものはずいぶん重要な役割を受け持つているわけである。しかるに日本にはトーキー俳優というものはまだいない。ほとんど無声映画時代の俳優をそのまま使つているのである。その中にはトーキーに適している人もあるだろうが、同時に全然落第の組もある。その淘汰はまつたく行われていない。
 口をきくということはおしでないかぎりだれにもできることであるが、商売として口をきくことになると案外難しいものである。早い話が不愉快な音声は困る。発音不明瞭は
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