くれるだろうとのんきに構えて、皆が皆、自分だけは日本人でないような顔をして「一つもない」をくり返していたのでは永久にろくなもののできつこはない。
「和製のトーキーはなぜつまらないのか」という質問はいたるところで投げかけられて実にうんざりするのであるが、しかし私は「和製のトーキーはつまらない」という事実を認めない。
 もしもつまらない事実を認めるとすれば、まず日本の映画がつまらないという事実を認めるべきであり、さらにさかのぼつて「日本にろくなものはない」という事実をも認めなければならない。
 ところが厳密にいえば日本のトーキーはまだ始まつていないのである。したがつて今から日本のトーキーがつまらないといつて騒ぐのはあたかも徳本峠を越さない先から上高地の風景をとやかくいうようなものである。
 しかしともかくも現在の状態ではつまらないというなら、それは一応の事実として受け取れる。この一応の事実がよつてくるところを少々考えてみよう。
「めつたに感心するな」ということは、現代の紳士がその体面を保つうえにおいて忘れてはならない緊要なる身だしなみの一つである。これは何もいまさら私が指摘するまでもなく、いやしくも現代の紳士階級の一般心理に関心を持つほどのものならだれしもがとつくの昔に気づいている現象である。
「感心をしない」ということは、昔は「感心をする」という積極的な心理作用の反対の状態を示すための、極めて消極的な影の薄い言葉にすぎなかつたはずであるが、現在では「感心をしない」ということ自身が独立した一つの能動的心理作用にまで昇格してしまつた観がある。
 現代の紳士たちは感心しないことを周囲からも奨励されると同時に自分自身からも強要されているわけである。
 かくてある場合には「感心しない」という目的のもとにわざわざ劇場に足を運ぶというような理解し難い現象をさえ生ぜしめるにいたつたのである。
 しかしこれらは我々が最も苦手とする連中に比較するときはまだ幾分愛すべき部類に属する。
 我々が目して最も苦手とする連中は、かの「見ない先からすでに感心しない」紳士たちである。この手合いに対しては残念ながら我々は全く策の施しようがないのである。
 もしもこの手合いに対して残された唯一の手段があるとすれば、それはいささかも彼らの意志を顧慮することなく直接行動に訴えて強制的にこれを館へ連行することで
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