人がほめてはくれない。見物から金を取つてトーキーを上映するからには原音どおり再生できる機械を備えるのが館として当然の義務である。もし何らかの事情でそれをやる能力がない場合には経営を断念すべきである。やめもしないかわりに音も聞かせないというのはもはや実業の域を脱している。それはむしろ招魂祭の見せ物に近きものである。
ロシヤには俳優の出ない映画などもできているが、日本の興行価値を主とする映画で俳擾の出ない写真というのは目下のところではまずない。作者なり監督なりが直接見物に話しかけるということはないので、すべて俳優の演技を介してものをいうのであるから、俳優の演技というものはずいぶん重要な役割を受け持つているわけである。しかるに日本にはトーキー俳優というものはまだいない。ほとんど無声映画時代の俳優をそのまま使つているのである。その中にはトーキーに適している人もあるだろうが、同時に全然落第の組もある。その淘汰はまつたく行われていない。
口をきくということはおしでないかぎりだれにもできることであるが、商売として口をきくことになると案外難しいものである。早い話が不愉快な音声は困る。発音不明瞭は困る。小唄の一つも歌つて調子はずれは困る。というふうにいつてくると、もうそれだけで落第者続出の盛況である。
舞台のほうでは普通に口がきけるようになるには五年以上かかるものとされている。普通にというがこの普通が大変で、三階の客にも聞えることを意味しているのだからなかなか普通の普通ではない。経験のないものは大きな声さえ出せば聞えるだろうと考えるがそんなものではない。声が大きいということと、言葉が明瞭に聞き取れるということは必ずしも両立しない。死んだ松助などは家にいるときもあのとおりであろうと想像されるような発声のしかたであつたが劇場の隅々までよくとおつた。何十年の習練の結果が、彼に発声法の真髄を会得せしめたのであろう。
トーキーの発声の場合は舞台と違つて距離に打ちかつ努力を必要としないからそれだけ容易なわけである。どんな低いささやきも機械が適宜に拡大して観客の耳にまで持つて行つてくれるのだから世話はない。そのかわり機械は機械でいくら完全に近くなつても決して肉声そのものではない。ことに現在の日本の機械の能力では俳優が機械から受ける制限にはかなり不自由なものがある。
なおたとえ将来におい
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