しい道化であるが、同時にそれは芸術以前の映画の姿をも象徴しているのである。
私がこの小論で述べようと思つたことは、以上でほぼ尽きたわけであるが、この議論をさらに推し進めて行くと、結局映画工作はそれぞれの地理的関係のもとに映画を育成することに重点をおくべしということになりそうである。
しかし、現地の事情について何ら知るところのない私がそこまで筆を駛《はし》らせることは不謹慎であるから、ここではそのような具体策にまでは触れない。
ただ、私がここで何よりも問題としているところは、むしろ思考の出発点についてであり、要するに民族性を離れていかに映画を論じたところで、決して解答は出てこないということさえ警告すれば、それでこの一文の役目はおわつたのである。[#地から2字上げ](『映画評論』昭和十九年三月号)
底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「映画評論」
1944(昭和19)年3月号
※誤植の確認にあたっては「靜臥後記」(大雅堂、昭和21年12月25日発行)所収の「映畫と民族性」を参照しました。
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊丹 万作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング