。すなわち取材の範囲を拡張せよと。またいう。雄大なる構想を練れと。もちろんいずれも結構なる議論である。私にはこれらの意見に反対するいささかの理由もない。それらは当然なさねばならぬことであるし、またできるときがあると思う。しかしながら、それは今日いつて今日できることではないのである。私はここでもまた、いうことのあまりにやすきを嘆ぜざるを得ない。
試みに思え、国民学校の一年生でも、今日先生の教えを理解し得るのは過去六年間の家庭の薫陶が基礎をなしているからである。我々の過去に何の薫陶があつたか!
説くものはまたいう。せりふの多い映画は不向きであるから、極力せりふを少なくし、動きを多くし、あたうべくんば活劇風のものを作れと。
あるいはそれもよいだろう。しかし、それをなすためには複雑な内容を忌避しなければならず、したがつて我々は意識的に一応退化しなければならない。一歩でも半歩でも絶えず前へ進むところに芸術にたずさわるもののよろこびがある。うしろへ進めといわれて熱情を湧かし得るものがあるかどうか。
説をなすものはさらにいう。畳の上に坐臥する日本の風習は彼らのわらいを買うからおもしろくない。百姓の生活は見せないほうがよい。貧しい階級の生活は見せないほうがよい。あるいはいわく何。いわく何。
ここにいたつて私は彼らに反問せずにはいられない。そもそも君たちは映画を何と心得ているのかと。国民の生活を反映しないような映画はすでに映画ではないのだ。芸術とは民族の生活のうえに咲く花なのだ。
他国の人間のしり馬に乗つて、百姓の姿を醜く感じるようなものはないはずである。百姓の姿は醜く、背広を着た月給取りは美しいというのか。そして、貧しい勤労者の生活を描くことは恥辱で、富みてひま多き人種を描くことは光栄なのか。世界のどこに貧者のおらぬ国があろう。世界の経済は、そして国家の生活力はほとんど彼ら貧しいものの勤労によつて維持されているではないか。
かくのごとき重要なる国家の構成分子の生活を除外してどこに芸術があろう。日本には百姓もいない。貧者もいない。いるのは軍人と金持だけであり、それが立派な洋館に住み、洋服を着て椅子に腰掛け、動けば雄大なる構想をもつて大活躍を演ずるというのが彼らのいう外地向きの映画なのだ。このような映画の作れる人は作るがよい。私には不可能である。
ここで第二の意見の検討
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