きるわけがない」と、こうくるに決つたものだ。
 ここでちよつと余談にわたることを許してもらいたいが、映画において重大なのは何も音楽一つに限つたわけのものではないのだ。音楽家ないしはそのジレッタント諸君が映画をごらんになる場合、ほかのことは何も見ないでもつぱら音楽のあらさがしだけに興味を持たれることは自由であるが、そのあとで、なぜこの監督はその半生を音楽の研究に費さなかつたか、などとむりな駄目を出されることははなはだ迷惑である。
 我々がその半生を音楽の教養に費していたら、いまごろはへたな楽士くらいにはなつていたかもしれぬが、決して一人まえの監督はできあがつていないはずである。
 我々がもしも映画の綜合するあらゆる部門にわたつて準専門家なみの研鑚を積まなければならぬとしたら、少なく見積つても修業期間に二百年位はかかるのである。
 要するに監督という職業は専門的に完成された各部署を動かしながら映画をこしらえて行くだけの仕事である。
 自分で一々オーケストラの前へ飛び出して行つたり、楽士に注文をつけたりする必要はない。気にいらぬ楽隊ならさつそく帰つてもらつて他の楽隊と取りかえればいいのである
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