れも思想だといえば思想なのであろう。なぜならば思想なしには判断もできないから。
しかし、クレールの示したものよりもさらに愚劣なもの、さらにこつけいなものはいくらでもある。
しかしクレールはあえてそれらを指摘しようとはしない。また、彼の指摘するところの愚劣やこつけいは何に原因しているのか、そしてそれらを取り除くにはどうすればいいのか、等々の問題については彼はいつこうに関心を示そうとしない。
もしも思想というものが現われるものなら、それは彼の関心を示さない、これらの部分にこそその姿を現わすはずのものである。したがつて私は彼の思想をどう解釈していいかほとんど手がかりを発見することができないのである。
私がいつかある場所において、クレールの作に現われているのは思想ではなくて趣味だといつたのはこのゆえである。
あれだけ多量の諷刺を通じてなおかつその思想の一端に触れることができないような、そんな諷刺に人々はなぜあれほど大さわぎをするのであろうか。
クレールの本質
私たちがクレールにとてもかなわないと思うのは多くの場合その技巧と機知に対してである。
クレールほどあざやかな技巧を持つており、クレールほど泉のように機知を湧かす映画作家を私は知らない。
彼が最もすぐれた喜劇作者であるゆえんは一にこの技巧と機知にかかつている。
彼が持つ精鋭なる武器、斬新なる技巧と鋭角的な機知をさげて立ち現われると我々はそれだけでまず圧倒されてしまう。
技巧と機知を縦横に馳駆する絢爛たる知的遊戯、私はこれをルネ・クレールの本質と考える。
クレールの個々の作品
以上の本質論からいつて彼の技巧と機知が目も綾な喜劇を織り上げた場合に彼の作品は最も完璧な相貌を帯びてくる。
たとえば「ル・ミリオン」である。「幽霊西へ行く」である。
「自由を我等に」「最後の億万長者」のほうを上位に置く人々は、彼の本質を知らぬ人であり、その諷刺を買いかぶつている人であろう。
「自由を我等に」は作の意図と形式との間に重大なる破綻があり、「最後の億万長者」の場合は思想のない諷刺のために息切れがしているのである。ことにあのラストのあたりはつまらぬ落語の下げのようで私の最も好まぬ作品である。作全体の手ざわりもガサツで、絶えずかんなくずの散らばつているオープン・セットを見ている感じが去らないで不愉快であつた。
そこへ行くと「ル・ミリオン」「幽霊西へ行く」の二作は、彼が彼の本領に即して融通無碍に仕事をしているし、形式と内容がぴつたりと合致して寸分のすきもない。完璧なる作品という語に近い。
なお彼の作品に現われた様式美についても論ずる価値があるが、これは別の機会に譲ろう。
[#地から2字上げ](『キネマ旬報』昭和十一年六月二十一日号)
底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「キネマ旬報」
1936(昭和11)年6月21日号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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