ないというのだ。

        ルネ・クレールと諷刺

 ルネ・クレールの作品にはパリ下町ものの系列と諷刺ものの系列との二種あることは万人のひとしく認めるところである。
 そしてそれらの表現形式は下町ものの場合は比較的リアリズムの色彩を帯び、諷刺ものの場合は比較的象徴主義ないし様式主義的傾向を示すものと大体きまつているようである。
 しかして二つの系列のうちでは、諷刺もののほうをクレール自身も得意とするらしく、世間もまた、より高位に取り扱い、より問題視しているようである。事実、彼の仕事がパリ下町ものの系列以外に出なかつたならば、彼は一種の郷土詩人に終つたかもしれない。すなわち公平なところ、彼が一流の地位を獲得したのは一にその諷刺ものの系列によつてであると見てさしつかえなかろう。つまり喜劇によつてである。
 元来クレールの喜劇は諷刺あるがゆえに尊しとされているのである。
 しかし、少し物事を考えてみたら、いまさらこういうことをいうのははなはだ腑に落ちぬ話である。なぜならば、いまの世の中で諷刺のない喜劇などというものを人が喜んで見てくれるものかどうかを考えてみるがいい。
 つまり喜劇に諷刺があるのは、あるべきものがあるべきところにあるというだけの話で別にありがたがるにはおよばんではないかというのである。人を笑わせるだけのことならからだのどこかをくすぐつてもできるのである。芸術だの何だのという大仰な言葉を使つて人さわがせをするにはあたらないのである。問題は諷刺の有無ではない。問題は諷刺の質にある。諷刺の質を決定するものは何かといえば、それは思想にきまつている。ではクレールの思想は?

        クレールと思想

 最も面にしてかつ倒なる問題に逢着してしまつた。白状すると私にはクレールの思想はわからない。少なくともいままで私の見た彼の作品(日本にきたものは全部見たが。)をつうじては彼の思想はつかめない。彼は何ごともいわないのかあるいは彼にははつきりした思想がないのか、どちらかである。彼は世間のできごとを観察する。そして判断する。こういうことは愚劣だ。あるいはこつけいである。たとえばそれはこういうふうなこつけいに似ている。見たまえ。これが彼らの姿だ。そういつて彼は私たちにこつけいな画面を示す。そこで我々はそれを見て笑う。
 クレールのすることはそれだけである。
 こ
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