ついて何らの思考を費すことなく、しかも何不自由なくその日を送つている理由は右のとおりである。
 さてここで問題を別の観点に引きおろして、あらためて見物の質としてのファンを論ずるならば、私は中途半端な、いわゆるファンはあまり感心しない。
 私の経験では、軽症映画中毒患者の写真の見方よりも、平素まつたく映画に縁遠い連中の見方の方が純粋でかつ素直である。
 そして、こういう連中の批評が実に端的に核心を射抜いていて驚かされることがしばしばである。あるいはまた映画を見て見て見尽した大通の見方もよい。
 しかし、我々が最も啓発されるのは、いずれの方面に限らず、およそ一流を極めた人の見方や批評で、これらの人の言の全部が必ずしも肯綮に当るとはいわないがある程度までは必ず傾聴すべき滋味がある。
 私の経験からいえば、その反対の場合、すなわち自分の専門外のことを批評した場合、あまりにめちやくちやなことをいう人は決してほんものではない。
 少なくとも一つの道の一流は容易に他の道の一流を理解するというのが私の持論である。
 さて中途半端な困りものはいわゆるファンである。もしそれ、スターのプロマイドに熱狂し、鼻紙の類に随喜する徒輩にいたつてはただ単に俳優のファンたるにすぎず、これはもはや映画のファンと称することさえ分に過ぎる。事すでに論外に属するのである。[#地から2字上げ](『ムウビイ』昭和十一年一月十四日号)



底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
   1961(昭和36)年8月20日初版発行
   1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「ムウビイ」
   1936(昭和11)年1年14日号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年2月15日作成
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