と思って移ったのではない。これは低級なものだと思いながら、やむを得ず、やらざるを得なくなって、やったのです。それが、地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、用兵上の非常な自由を獲得したのみならず、散兵戦術は自由にあこがれたフランス国民の性格によく適合しました。
これに加えて、傭兵の時代とちがい、ただで兵隊を狩り集めて来るのですから、大将は国王の財政的顧慮などにしばられず、思い切った作戦をなし得ることとなったのであります。こういう関係から、十八世紀の持久戦争でなければならなかった理由は、自然に解消してしまいました。
ところが、そういうように変っても、敵の大将はむろんのこと新しい軍隊を指揮したフランスの大将も、依然として十八世紀の古い戦略をそのまま使っていたのであります。土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、極めて慎重に戦いをやって行く方式をとっていたのです。このとき、フランス革命によって生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、その直感力により新しい戦略を発見し、果敢に運用したのが不世出の軍略家ナポレオンであります。即ちナポレオンは当時の用兵術を無視して、要点に兵力を集めて敵線を突破し、突破が成功すれば逃げる敵をどこまでも追っかけて行って徹底的にやっつける。敵の軍隊を撃滅すれば戦争の目的は達成され、土地を作戦目標とする必要などは、なくなります。
敵の大将は、ナポレオンが一点に兵を集めて、しゃにむに突進して来ると、そんなことは無理じゃないか、乱暴な話だ、彼は兵法を知らぬなどと言っている間に、自分はやられてしまった。だからナポレオンの戦争の勝利は対等のことをやっていたのではありません。在来と全く変った戦略を巧みに活用したのであります。ナポレオンは敵の意表に出て敵軍の精神に一大電撃を加え、遂に戦争の神様になってしまったのです。白い馬に乗って戦場に出て来る。それだけで敵は精神的にやられてしまった。猫ににらまれた鼠のように、立ちすくんでしまいました。
それまでは三十年戦争、七年戦争など長い戦争が当り前であったのに、数週間か数カ月で大きな戦争の運命を一挙に決定する決戦戦争の時代になったのであります。でありますから、フランス革命がナポレオンを生み、ナポレオンがフランス革命を完成したと言うべきです。
特に皆さんに注意していただきたいのは、フランス革命に於ける軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかったことであります。中世暗黒時代から文芸復興へ移るときに軍事上の革命が起ったのは、鉄砲の発明という兵器の関係でありました。けれどもフランス革命で横隊戦術から散兵戦術に、持久戦争から決戦戦争に移った直接の動機は兵器の進歩ではありません。フリードリヒ大王の使った鉄砲とナポレオンの使ったものとは大差がないのです。社会制度の変化が軍事上の革命を来たした直接の原因であります。このあいだ、帝大の教授がたが、このことについて「何か新兵器があったでしょう」と言われますから「新兵器はなかったのです」と言って頑張りますと、「そんなら兵器の製造能力に革命があったのでしょうか」と申されます。「しかし、そんなこともありませんでした」と答えぎるを得ないのです。兵器の進歩によってフランス革命を来たしたことにしなければ、学者には都合が悪いらしいのですが、都合が悪くても現実は致し方ないのであります。ただし兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあったのに、社会制度がフランス革命まで、これを阻止していたと見ることができます。
プロイセン軍はフリードリヒ大王の偉業にうぬぼれていたのでしたが、一八〇六年、イエーナでナポレオンに徹底的にやられてから、はじめて夢からさめ、科学的性格を活かしてナポレオンの用兵を研究し、ナポレオンの戦術をまねし出しました。さあそうなると、殊にモスコー敗戦後は、遺憾ながらナポレオンはドイツの兵隊に容易には勝てなくなってしまいました。世の中では末期のナポレオンは淋病で活動が鈍ったとか、用兵の能力が低下したとか、いい加減なことを言いますけれども、ナポレオンの軍事的才能は年とともに発達したのです。しかし相手もナポレオンのやることを覚えてしまったのです。人間はそんなに違うものではありません。皆さんの中にも、秀才と秀才でない人がありましょう。けれども大した違いではありません。ナポレオンの大成功は、大革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義をとらえた結果であります。天才ナポレオンも、もう二十年後に生まれたなら、コルシカの砲兵隊長ぐらいで死んでしまっただろうと思います。諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。ヒットラーやナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。
フリードリヒ大王とナポレオンの用兵術を徹底的に研究したクラウゼウィッツというドイツの軍人が、近代用兵学を組織化しました。それから以後、ドイツが西洋軍事学の主流になります。そうしてモルトケのオーストリアとの戦争(一八六六年)、フランスとの戦争(一八七〇―七一年)など、すばらしい決戦戦争が行なわれました。その後シュリーフェンという参謀総長が長年、ドイツの参謀本部を牛耳っておりまして、ハンニバルのカンネ会戦を模範とし、敵の両翼を包囲し騎兵をその背後に進め敵の主力を包囲|殲滅《せんめつ》すべきことを強調し、決戦戦争の思想に徹底して、欧州戦争に向ったのであります。
第五節 第一次欧州大戦
シュリーフェンは一九一三年、欧州戦争の前に死んでおります。つまり第一次欧州大戦は決戦戦争発達の頂点に於て勃発したのです。誰も彼も戦争は至短期間に解決するのだと思って欧州戦争を迎えたのであります。ぼんくらまで、そう思ったときには、もう世の中は変っているのです。あらゆる人間の予想に反して四年半の持久戦争になりました。
しかし今日、静かに研究して見ると、第一次欧州大戦前に、持久戦争に対する予感が潜在し始めていたことがわかります。ドイツでは戦前すでに「経済動員の必要」が論ぜられておりました。またシュリーフェンが参謀総長として立案した最後の対仏作戦計画である一九〇五年十二月案には、アルザス・ロートリンゲン地方の兵力を極端に減少してベルダン以西に主力を用い、パリを大兵力をもって攻囲した上、更に七軍団(十四師団)の強大な兵団をもってパリ西南方から遠く迂回し、敵主力の背後を攻撃するという真に雄大なものでありました(二五頁の図参照)。ところが一九〇六年に参謀総長に就任したモルトケ大将の第一次欧州大戦初頭に於ける対仏作戦は、御承知の通り開戦初期は破竹の勢いを以てベルギー、北フランスを席捲して長駆マルヌ河畔に進出し、一時はドイツの大勝利を思わせたのでありましたが、ドイツ軍配置の重点はシュリーフェン案に比して甚だしく東方に移り、その右翼はパリにも達せず、敵のパリ方面よりする反撃に遇《あ》うともろくも敗れて後退のやむなきに至り、遂に持久戦争となりました。この点についてモルトケ大将は、大いに批難されているのであります。たしかにモルトケ大将の案は、決戦戦争を企図したドイツの作戦計画としては、甚だ不徹底なものと言わねはなりません。シュリーフェン案を決行する鉄石の意志と、これに対する十分な準備があったならば、第一次欧州大戦も決戦戦争となって、ドイツの勝利となる公算が、必ずしも絶無でなかったと思われます。
しかし私は、この計画変更にも持久戦争に対する予感が無意識のうちに力強く作用していたことを認めます。即ちシュリーフェン時代にはフランス軍は守勢をとると判断されたのに、その後、フランス軍はドイツの重要産業地帯であるザール地方への攻勢をとるものと判断されるに至ったことが、この方面への兵力増加の原因であります。また大規模な迂回作戦を不徹底ならしめたのは、モルトケ大将が、シュリーフェン元帥の計画では重大条件であったオランダの中立侵犯を断念したことが、最も有力な原因となっているものと私は確信いたします。ザール鉱工業地帯の掩護《えんご》、特にオランダの中立尊重は、戦争持久のための経済的考慮によったのであります。即ち決戦を絶叫しっつあったドイツ参謀本部首脳部の胸の中に、彼らがはっきり自覚しない間に持久戦争的考慮が加わりつつあったことは甚だ興味深いものと思います。
[#底本25頁に「ドイツの対仏作戦に於ける軍主力の前進方向」の図がある]
四年半は三十年戦争や七年戦争に比べて短いようでありますが緊張が違う。昔の戦争は三十年戦争などと申しましても中間に長い休みがあります。七年戦争でも、冬になれば傭兵を永く寒い所に置くと皆逃げてしまいますから、お互に休むのです。ところが第一次欧州戦争には徹底した緊張が四年半も続きました。
なぜ持久戦争になったかと申しますと、第一に兵器が非常に進歩しました。殊に自動火器――機関銃は極めて防禦に適当な兵器であります。だからして簡単には正面が抜けない。第二にフランス革命の頃は、国民皆兵でも兵数は大して多くなかったのですが、第一次欧州戦争では、健康な男は全部、戦争に出る。歴史で未だかつてなかったところの大兵力となったのです。それで正面が抜けない。さればと言って敵の背後に迂回しようとすると、戦線は兵力の増加によってスイスから北海までのびているので迂回することもできない。突破もできなければ迂回もできない。それで持久戦争になったのであります。
フランス革命のときは社会の革命が戦術に変化を及ばして、戦争の性質が持久戦争から決戦戦争になったのでしたが、第一次欧州大戦では兵器の進歩と兵力の増加によって、決戦戦争から持久戦争に変ったのであります。
四年余の持久戦争でしたが、十八世紀頃の持久戦争のように会戦を避けることはなく決戦が連続して行なわれ、その間に自然に新兵器による新戦術が生まれました。
砲兵力の進歩が敵散兵線の突破を容易にするので、防者は数段に敵の攻撃を支えることとなり、いわゆる数線陣地となりましたが、それでは結局、敵から各個に撃破される危険があるため、逐次抵抗の数線陣地の思想から自然に面式の縦深防禦の新方式が出てきました。
[#底本27頁、左上に図あり]
すなわち自動火器を中心とする一分隊ぐらい(戦闘群)の兵力が大間隔に陣地を占め、さらにこれを縦深に配置するのであります(上図参照)。このような兵力の分散により敵の砲兵火力の効力を減殺するのみならず、この縦深に配置された兵力は互に巧妙に助け合うことによって、攻者は単に正面からだけでなく前後左右から不規則に不意の射撃を受ける結果、攻撃を著しく困難にします。
こうなると攻撃する方も在来のような線の敵兵では大損害を受けますから、十分縦深に疎開し、やはり面の戦力を発揮することにつとめます。横隊戦術は前に申しましたように専制をその指導精神としたのに対し、散兵戦術は各兵、各部隊に十分な自由を与え、その自主的活動を奨励する自由主義の戦術であります。しかるに面式の防禦をしている敵を攻撃するに各兵、各部隊の自由にまかせて置いては大きな混乱に陥るから、指揮官の明確な統制が必要となりました。面式防禦をするのには、一貫した方針に基づく統制が必要であります。
即ち今日の戦術の指導精神は統制であります。しかし横隊戦術のように強権をもって各兵の自由意志を押えて盲従させるものとは根本に於て相違し、各部隊、各兵の自主的、積極的、独断的活動を可能にするために明確な目標を指示し、混雑と重複を避けるに必要な統制を加えるのであります。自由を抑制するための統制ではなく、自由活動を助長するためであると申すべきです。
右のような新戦術は第一次欧州大戦中に自然に発生し、戦後は特にソ連の積極的研究が大きな進歩の動機となりました。欧州大戦の犠牲をまぬがれた日本は一番遅れて新戦術を採用し、今日、熱心にその研究訓練に邁進しております。
また第一次欧州大戦中に、戦争持久の原因は西洋人の精神力の薄弱に基づくもので大和魂をもってせば即戦即決が可能
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