得なかった事が多い。
モルトケ元帥は一八九〇年議会に於ける演説に於て「将来戦は七年戦争または三十年戦争たる事無きにあらず」と述べている。しかし商工業の急激なる進歩は長期戦争は到底不可能と一般に信ぜられ、また軍事の進歩も甚だしく一八九一年から一九〇六年まで参謀総長であったシュリーフェンは殲滅戦略の徹底に全力を傾注した。シュリーフェンの「カンネ」から若干抜粋して見る。
「完全なる殲滅戦争が行なわれた。特に驚嘆に値するは本会戦が総ての理論に反し劣勢をもって勝利を得たる点にある。クラウゼウィッツは『敵に対し集中的効果は劣勢者の望み難きところである』と云っており、ナポレオンは『兵力劣勢なるものは、同時に敵の両翼を包囲すべからず』と云っている。然るにハンニバルは劣勢をもって集中的効果を挙げ、かつ単に敵の両翼のみならず更にその背後に向い迂回した」
「カンネの根本形式に依れは横広なる戦線が正面狭小で通常縦深に配備せられた敵に向い前進するのである。張出せる両翼は敵の両側に向い旋回し、先遣せる騎兵は敵の背後に迫る。若し何らかの事情に依り翼が中央から分離する事があってもこれを中央に近接せしめた後、同時に包囲攻撃のため前進せしむる如き事なく、翼に近接最捷路を経て敵の側背に迫らねばならぬ」
要するに平凡な捷利に満足することなく、重大な危険を顧みず敵の両側を包囲し絶大な兵力を敵の背後に進めて完全に敵全軍を捕捉殲滅せんとする「殲滅戦」への徹底である。
彼はこの思想を全ドイツ軍に徹底するため熱狂的努力を払った。彼の思想は決して堅実とは言われぬ。彼の著述した戦史研究等も全く主観的で歴史的事実に拘泥する事なく、総てを自己の理想の表現のために枉《ま》げておる有様である。危険を伴うものと言わねばならぬが、速戦即決の徹底を要したドイツのため止むに止まれぬ彼の意気は真に壮とせねばならぬ。彼が臨終に於ける囈語《うわごと》は「吾人の右翼を強大ならしめよ!」であった。外国人の私も涙なくして読まれぬ心地がする。タンネンベルグ会戦は彼の理想が高弟ルーデンドルフにより最もよく実行せられたのである。
彼が参謀総長として最後の計画であった一九〇五年の対仏作戦計画は彼の理想を最もよく現わしている。ベルダン以東には真に僅少の兵力で満足して主力をオアーズ河以西に進め、ラフェール、パリ間には十個軍団を向け、パリは補充六個軍団で攻囲し、更にその西南方地区より敵主力の背後に七個軍団を迂回して全仏軍を捕捉殲滅せんとするのである。殲滅戦の徹底と見るべきである。
第八節 第一次欧州大戦
ドイツで殲滅戦が盛んに唱道せられ、決戦戦争への徹底を来たしている時、日露戦争、南阿戦争は持久戦争の傾向を示したものであるが、それらは皆殖民地戦争のためと簡単に片づけられた。もちろん土地の兵力に対する広大と交通の不便が両戦争を持久戦争たらざるを得ざらしむる原因となったのであるが、両戦争を詳細に観察すれば正面突破の至難が観破せられる。これは欧州大戦の持久戦争となる予報であったのだ。ドイツはこの戦争の教訓に依り重砲の増加に努力した。着眼は良かったが、まだまだ時勢の真相を把握するの明がなかった。
第一次欧州大戦開始せられると、殖民地戦争の経験に富むキチナー元帥は、戦争は三年以上もかかるように言うたのであるが、一般の人々は誰もが戦争は最短期間に終るものと考え、殊にドイツではクリスマスはベルリンでと信じ、軍隊輸送列車には「パリ行」と兵士どもが落書したのである。
しかるに破竹の勢いでパリの前面まで侵入したドイツ軍はマルヌ会戦に破れて後退、戦線はスイスから北海に及んで交綏状態となり、東方戦場また決戦に至らないで、遂に万人の予想に反し四年半の持久戦争となった。
一九一四年のモルトケ大将の作戦は一九〇五年のシュリーフェン案に比べて余りに消極的のものであった。即ちシュリーフェンが一軍団半、後備四旅団半、騎兵六師団しか用いなかったメッツ以東の地区に八軍団、後備五旅団半、騎兵六師団を使用し、ベルダン以西に用いた攻勢翼である第一ないし第四軍の兵力は合計約二十一軍団に過ぎない。ドイツ軍の右翼がパリにすら達しなかったのは当然である。
シュリーフェン引退後、連合国側の軍備はどしどし増加するに反してドイツ側はなかなか思うように行かなかった。第一次欧州大戦前ドイツの政情は満州事変前の日本のそれに非常に似ていたのである。世は自由主義政党の勢力強く、参謀本部の要求はなかなか陸軍省の賛成が得られず(しかも参謀本部の要求も世間の風潮に押されて誠に控え目であった)、更に陸軍省と大蔵省、政府と議会の関係は甚だしく兵備を掣肘する。英国側の宣伝に完全に迷わされていた。日本知識階級は開戦頃の同盟側の軍備は連合側より遥かに優越していたように思ってい
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