より戦争力が増大し、その威力圏の拡大に伴って政治的統一の範囲も広くなって来たのであるが、世界の一地方を根拠とする武力が全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを迅速に屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一されることとなる(三五頁)。
更に問題になるのは、たとい未曽有の大戦争があって世界が一度は統一されても、間もなくその支配力に反抗する力が生じて戦争が起り、再び国家の対立を生むのではなかろうかということである。しかしそれは、最終戦争が行なわれ得る文明の超躍的大進歩に考え及ばず今日の文明を基準とした常識判断に過ぎない。瞬間に敵国の中心地を潰滅する如き大威力(三七頁)は、戦争の惨害を極端ならしめて、人類が戦争を回避するに大きな力となるのみならず、かくの如き大威力の文明は一方、世界の交通状態を一変させる。数時間で世界の一周は可能となり、地球の広さは今日の日本よりも狭いように感ずる時代であることを考えるべきである。人類は自然に、心から国家の対立と戦争の愚を悟る。且つ最終戦争により思想、信仰の統一を来たし、文明の進歩は生活資材を充足し、戦争までして物資の取得を争う時代は過ぎ去り人類は、いつの間にやら戦争を考えなくなるであろう(四九―五一頁)。
人類の闘争心は、ここ数十年の間はもちろん、人類のある限り恐らくなくならないであろう。闘争心は一面、文明発展の原動力である。しかし最終戦争以後は、その闘争心を国家間の武力闘争に用いようとする本能的衝動は自然に解消し、他の競争、即ち平和裡に、より高い文明を建設する競争に転換するのである。現にわれわれが子供の時分は、大人の喧嘩を街頭で見ることも決して稀ではなかったが、今日ではほとんど見ることができない。農民は品種の改善や増産に、工業者はすぐれた製品の製作に、学者は新しい発見・発明に等々、各々その職域に応じ今日以上の熱を以て努力し、闘争的本能を満足させるのである。
以上はしかし理論的考察で半ば空想に過ぎない。しかし、日本国体を信仰するものには戦争の絶滅は確乎たる信念でなけれはならぬ。八紘一宇とは戦争絶滅の姿である。口に八紘一宇を唱え心に戦争の不滅を信ずるものがあるならば、真に憐むべき矛盾である。日本主義が勃興し、日本国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えな
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