そこでモルトケ大将は、敵の攻撃に対しメッツ要塞を利用し、いわゆるニードの「袋《わな》」に敵を誘致して一撃を与え、主力はマース右翼の敵の背後に迫るような作戦を希望したものらしい。ある年の参謀旅行で、敵がロートリンゲンに突進して来るのに、作戦計画の如く主力をマース左岸に進めんとする専習員の案に対し、モルトケは「その必要はない。マース右岸の地区を敵の側背に迫るべきだ」と講評したとの事である。
[#底本216頁右上に地図あり]
 しかし無力なモルトケが、断然シュリーフェン伝統の大迂回作戦を断念する勇気はあり得ない。参謀本部の空気がそれを許すべくもない。また実際モルトケもそこまで徹底した識見は無かったであろう。永年の伝統に捉われない自由さから、他の人々より持久戦争に対する予感は強かったのだが、さりとて次の時代を明確に把握する事も出来なかったろう。モルトケを特に凡庸の人というのではない。ナポレオンの如く、ヒットラーの如く特に幾億人の一人と云われる優れた人でなければ無理な事である。
 一九一四年八月十八日頃のモルトケの煩悶はこの辺の事情を見透せば自ら解るではないか。敵は予期した通りロートリンゲンに侵入して来た。しかしその態度が慎重でどうもニードの「袋《わな》」にかかるかどうか。リエージュはその間に陥落する。集中は予定通り出来る。敵の攻勢を待とうか、待ちたいが集中は終る。大迂回作戦を躊躇する事は全体の空気が許さないと云うような彼の心境であったろう。
 不徹底なる計画、不徹底なる指揮は遂にマルヌ会戦の結果となった。しかし事ここに至ったのは一人のモルトケを責める事は少々無理である事が判ったであろう。時の勢いと見ねばならぬ。
 モルトケ大将はマルヌに敗れて失脚し、陸相ファルケンハインが参謀総長を兼ねる事になった。彼は軍団長の経験すらなき新参者で大抜擢である。ファルケンハインは西方に於て頽勢の挽回に努力したが遂に成功しなかった。ルーデンドルフ一党からは一九一四年、特に一九一五年ルーデンドルフ等の東方に於ける成功に乗じ、彼らの献策を入れて敢然東方に兵力を転用しなかった事を攻撃せられる。彼らの云う如くせば、露国に一大打撃を与え戦争全般の指導に好結果をもたらしたであろう。しかし広大なる地域を有する露国に決戦戦争を強いる事は、当時恐らく困難であったろうと判断せられる。
 ファルケンハインの失脚
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