となった。この会戦は第一、第二シュレージエン戦争中王自ら進んで企て自ら指揮したほとんど唯一の会戦であり(大王が最も困難な時会戦を求めたのである)、大王が名将たる事を証した重要なるものであるが、全戦争に対する作用はそう大した事は無く、敵はケーニヒグレッツ附近に止まり、王は徐々に追撃してその前面に進出、数カ月の対峙となった。けれども大王は兵力を分散しかつ糧秣欠乏し、遂に北方に退却の止むなきに至った。墺軍はこれに追尾し来たり、九月三十日ゾール附近に於て大王の退路近くに現出した。大王はこれを見て果敢に攻撃を行ない敵に一大打撃を与えたけれども、永くベーメンに留まる事が出来ず、十月中旬シュレージエンに退却冬営に就いた。
しかるに墺軍は一部をもってライプチヒ方向よりベルリン方向に迫り、カール親王の主力はラウジッツに進入これに策応した。そこで大王はシュレージエンの軍を進めてカールに迫ったのでカールはベーメンに後退した。大王は外交の力に依ってザクセンを屈せんとしたが目的を達し難いので、ザクセン方向に作戦していたアンハルト公を督励して、十二月十五日ザクセン軍をケッセルスドルフに攻撃せしめ遂にこれを破った。大王はこの日ドレスデン西北方二十キロのマイセンに止まり、カールはドレスデンに位置して両軍の主力は会戦に参加しなかったのである。
カールは再戦を辞せぬ決心であったが、ザクセン軍は志気阻喪して十二月二十五日遂にドレスデンの講和成立し、ブレスラウ条約を確認せしめた。
3、七年戦争(一七五六―六二年)
第二シュレージエン戦争後七年戦争までの十年間大王は国力の増進と特に前二戦争の体験に基づき軍隊の強化訓練に全力を尽し、自ら数個の戦術書を起案した。かくて大王はその軍隊を世界最精鋭のものと確信するに至ったのである。この十カ年間の大王の努力は戦争研究者の特に注目すべきところである。
イ、一七五六年
墺国の外交は着々成功し露、スウェーデン、索(ザクセン)、巴等の諸邦をその傘下に糾合し得たるに対し、大王は英国と近接した。
また大王は墺国のシュレージエン回復計画の進みつつあるを知り、一七五六年開戦に決して八月下旬ザクセンに進入、十月中旬頃ザクセン軍主力を降服せしめ、同国の領有を確実にした。
ロ、一七五七年
敵国側の団結は予想以上に鞏固《きょうこ》で一七五七年のため約四十万の兵力を使用し得る
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