たが、ちょっとやそっとの療治では快《よ》くなりそうもなかった。
「思いきって、根本療治をしえもらわなくちゃ駄目だよ。」
浅井は、下《お》りものなどのした時、蒼い顔をして鬱《ふさ》ぎ込んでいるお増に言ったが、お増はやはりその気になれずにいた。
「前には平気で診てもらえたんですけれど、この節は、あの台のうえに上るのが、厭で厭でたまりませんよ。」
お増はそう言って、少しの間毎日通うことになっている、病院の方さえ無精になりがちであった。
伊豆へ立つときも、このごろ何かのことに目をさまして来たらしいお今のことが、気になってしかたがなかった。浅井の傍に、飯の給仕などをしている、処女らしいその束髪姿や、弾《はず》みのある若々しい声などが、お増の気を多少やきもきさせた。
お今に自分が浅井の背《せなか》を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。
「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。
浅井は「ふふ。」と笑っていた。
お今は何の気もつかぬらしい顔をして力一杯|背《せなか》を擦《こす》っていた。
お増と二人で行きつけの三越《みつこし》などで、お今に似合うような柄を択《よ》って、浅井は時のものを着せることを忘れなかった。
「お今ちゃん、旦那がこれをお前さんのに買って下すったんですよ。仕立てて着るといいわ。」
お増は品物をそこへ出して、お今にお辞儀をさせたが、自分にもそれが嬉しく思えたり、妬《ねた》ましく思えたりした。お今の年ごろに経て来た、苦労の多い自分の身のうえを、考えないわけに行かなかった。
伊豆の温泉場《ゆば》では、浅井は二日ばかり遊んでいた。海岸の山には、木々の梢が美しく彩《いろど》られて、空が毎日澄みきっていた。小高いところにある青い蜜柑林《みかんばやし》には、そっちこっちに黄金色した蜜柑が、小春の日光に美しく輝いていた。
湯からあがって、谿川の音の聞える、静かな部屋のなかに、差し向いに坐っている二人のなかには、初めて一緒になった時のような心の自由と放佚《ほういつ》とが見出されなかった。そして何か話し合ったり、思い出したりしていると思うと、それが過去のことであったり、前途《さき》のことであったりした。
「前《まえ》やい――。」
浅井は海や人家などの幽《かす》かに見える山の麓《ふもと》に突っ立っていたとき、大きな声を張り上げて叫んだ。そして独りで侘《わび》しげに笑った。声は何ほどの反響をも起さないで、淋しく山の空気に掻き消えた。
「おっと危い危い。」
浅井は足元の崩《ぐ》れだした山腹の小径《こみち》に踏み留まって、お増の手に掴《つか》まった。
「いやね。」とお増はその手を引っ張ったが、心は寂しいあるものに涵《ひた》されていた。蜜柑の匂いなどのする四下《あたり》には、草のなかに虫がそこにもここにも、ちちちちと啼いていた。
にやにやしている男の顔を、お増は時々じっと瞶《みつ》めていた。悪戯《いたずら》な企《たくら》みが、そこに浮いてみえるようであった。
三十二
浅井の行ってしまった寂しい部屋のなかに、お増は毎日湯疲れのしたような体を臥《ね》たり起きたりして暮したが、どうかすると草履《ぞうり》ばきで、外へ散歩に出かけることもあった。
部屋の硝子障子から見える川向うの山手の方に、がったんがったんと懈《だる》い音を立てて水車が一日廻っていたが、小雨《こさめ》などの降る日には、そこいらの杉木立ちの隙に藁家《わらや》から立ち昇る煙が、淡蒼《うすあお》く湿気のある空気に融《と》け込んで、子供の泣き声や鶏《とり》の声などがそこここに聞えた。春雨のような細い雨が、明るい軒端《のきば》に透しみられた。
垠《はずれ》の部屋へ来ている、気楽な田舎の隠居らしい夫婦ものの老人《としより》の部屋から碁石の音や、唐金《からかね》の火鉢の縁にあたる煙管の音が、しょっちゅう洩れて来たが、つい隣の隅の方の陰気くさい部屋にごろごろしている一人の青年の、力ない咳《せき》の声が、時々うっとりと東京のことなどを考えているお増の心を脅《おびや》かした。
「毎日雨降りでいけませんな。」
廊下へ出て、縁《へり》に蘇鉄《そてつ》や芭蕉《ばしょう》の植わった泉水の緋鯉《ひごい》などを眺めていると、褞袍姿《どてらすがた》のその男が、莨をふかしながら、側へ寄って来て話しかけた。男はまだ三十にもならぬらしく、色の小白い、人好きのよさそうな顔をしていた。時々高貴織りの羽織などを引っかけて川縁《かわべり》などを歩いているその姿を、お増は見かけていた。
「さようでございますね。」
お増は愛想らしく答えたが、よく男にでたらめな話の応答《うけこたえ》などの出来た以前の自分に比べると、こうした見知ら
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