へ稼《かせ》ぎに行っているのだということも、真実《ほんとう》らしかった。
「どちらにしたっていいじゃないか。お前だって、今に子供の欲しいと思う時機《おり》があるんだから、これを自分の子だと思っていれば、それでいいわけだ。」
 浅井はそう言って、淡白に笑っていた。
 年の割りに子供のませたことが、日がたつに従って、お増の目に映って来た。子供はいつかお増の顔色などを見ることを知っていた。自分だけでは、子供と何の交渉を持ち得ないことが、だんだんお増に解って来た。憎むときは打《ぶ》ったり撲《は》ったりして、可愛がるときは頬っぺたに舐《な》めついたり、息のつまるほど抱きしめたりしたヒステレカルなお柳に、長いあいだ子供は弄《いじ》られていたらしかった。
「……可愛くも、憎くもありませんよ。」
 子供を傍に据えて、自分の箸《はし》から物を食べさせなどしながら、晩酌の膳に向っている浅井に、子供のことを訊かれると、お増は、いつもそう言って答えるよりほかなかった。
 着飾らせた子供の手を引いて、日比谷公園などを歩いている夫婦を、浅井もお増も、どうかすると振り顧《かえ》って見たりなどしたことが、三人連れ立って出歩いている時の、お増の心に寂しく浮びなどした。
「もう二人で歩くのはおかしい。」
 浅井はこう言っては、子供の悦びそうな動物園や浅草へ遊びに行った。子供も一緒に見る、不思議な動物や活《い》き人形などがお増の目にも物珍しく眺められたが、電車の乗り降りなどに、子供を抱いたり擁《かか》えたりする浅井の父親らしい様子を見ているのが、何とはなしに寂しかった。
「静《しい》ちゃんや静ちゃんや……。」
 お増は時々うっかり物に見入っている子供の名を呼んで、柔かい小さい手を引っ張りなどしたが、やはり気乗りがしなかった。
「母ちゃん――。」
 子供は父親のいない家のなかが寂しくなって来ると、思い出したように、抱いてでももらいたそうにお増の側へ寄って来るのであったが、女らしい優しさや、母親らしい甘い言葉の出ないのが、お増自身にももの足りなかった。
 お増は茶箪笥の鑵《かん》のなかから、干菓子を取り出して、子供にくれた。

     二十九

 静子と同じ年ごろの男の子が、時々門の外へ来て、「静子《ちずこ》ちゃん遊びまちょう。」などと声かけた。「はーい。」と奥から返事をして、静子は護謨鞠《ゴムまり》などを持って駈け出して行くのであったが、男の子は時々呼び込まれて家のなかへも入って来た。色の蒼い、体の※[#「兀+王」、第3水準1−47−62]弱《ひよわ》そうなその子は、いろいろな翫具《おもちゃ》を取り出してしばらく静子と遊んでいるかと思うと、じきに飽きてしまうらしかった。
「坊ちゃんのお父さんは何をなさるの。」
 二人で仲よく遊んでいる子供のいたいけな様子に釣《つ》り込まれながら、お増はいつか自分の荒く育った幼年時代のことなどを憶い出していた。町垠《まちはずれ》にあったお増の家では、父親が少しばかりあった田畑へ出て、精悍精悍《まめまめ》しくよく働いていた。夏が来ると、柿の枝などの年々なつかしい蔭を作る廂《ひさし》のなかで、織機《はた》に上って、物静かにかちかち梭《ひ》を運んでいる陰気らしい母親の傍に、揺籃《つづら》に入れられた小さい弟がおしゃぶりを舐《しゃぶ》って、姉の自分に揺られていた。夏になるとその子を負《おぶ》って、野川の縁《ふち》にある茱萸《ぐみ》の実などを摘んで食べていたりした自分の姿も憶《おも》い出せるのであった。
 男の子は、じきに迎いに来る女中につれられて帰って行った。
「僕の父さん博士でっ。」
 子供はお増の問いに答えた。
 その博士が、ある大学の有名な教授であることが、おりおり門口などで口を利き合うほどに心易くなった女中の口から、お増に話された。
「旦那さまは、それでも一年に四、五回もいらっしゃるでしょうかね。」
 そう言う女中は、小石川の方にある博士の邸《やしき》のことについては何も知らなかった。しかし子供の母親が、逗子《ずし》にある博士の別荘に召使いとして住み込んでいる時分に、ふと博士の胤《たね》を娠《はら》んだのだということや、ある権門から嫁《とつ》いで来た夫人の怒りを怖れてそのことが博士以外の誰にも、絶対に秘密にされてあることだけは知られてあった。
 門へ出て、時々子供を見ている、醜いその母親の束髪姿が、それ以来お増の注意を惹《ひ》いた。年のころ五十ばかりの博士は、不断着のまま、辻俥《つじぐるま》などに乗って、たまにそこへやって来るのであったが、それは単に三月とか四月とかの纏まった生活費と養育費とを渡しに来るだけに止まっていた。女は長いあいだ頑《かたくな》な独身生活を続けて来た。そして三千四千と、自分の貯金額の、年々増加して行くと同時に、
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