》から動かしたらしかった。
 東京の生活の面白みに、やっと目ざめて来たお今の柔かい胸に、兄の持ち込んで来た縁談が、押石《おもし》のように重くかかって来た。日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄《もや》か何ぞのような雰囲気《ふんいき》のなかに、お今の心を涵《ひた》しはじめるのであった。
「兄さん、私どうしたらいいんでしょう。」
 お今に長いその手紙を出して見せられた時、兄の言い条の理解のないことが、浅井に腹立たしく思えた。
 お今が、田舎へ呼び戻されることに、同意しているらしいお増が、ちょうど子供をつれて、行きつけの小林の妾宅《しょうたく》へ遊びに行っていた。
「どうといっても、私が喙《くち》を出す限りでもないが……。」
 浅井もお今のために、安全な道を選ばないわけに行かなかった。
「しかしお今ちゃんはどう思うね。」
 浅井は手紙を捲き収めながら、お今の顔を眺めていた。
「わたし?」お今は甘えるような目色をして、「私東京がいいんですの。東京で独立ができさえすれば、私田舎へなぞ行くのは、気が進まないんです。私独立ができるでしょうか。」
「そうなれば、またその談《はなし》にしなければならんがね。それは後の問題として、田舎へ引っ込むのがどうしても厭なら、一応私の方から、兄さんの方へ言って上げてもいい。私にしたところで、兄さんのしかたは少し勝手だと思う。」
 しかし浅井の言ってやったことは、田舎では受け入られそうもなかった。とにかく、本人を一度よこして下さい。この手紙が着き次第すぐにも立たして下さい――そう言って兄の方から折り返し浅井に迫って来た。その手紙は、お増の前にも展《ひろ》げられた。夫婦はちょうどお今をつれて、暮の買物をしに、銀座の方へ出かけて行こうとしているところであった[#「あった」は底本では「あつた」]。新しい足袋《たび》をはいて、入れ替えたばかりの青い畳のうえをそっちこっちわさわさ歩いているお増の衣摺《きぬず》れの音が忙しそうに聞えたり、下駄を出すお今の様子が、浮き浮きして見えたりした。浅井は外出のそわそわした気分を撹《か》き乱されて、火鉢の傍に坐って、手紙を繰り返し眺めていた。
「やっぱり[#「やっぱり」は底本では「やつぱり」]返してくれと言うんでしょう。」
 お増も、半襟を掻き合わせなどしながら、傍へ寄って来た。
「返した方がよござん
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