体を決めずにいるらしかった。宿屋かお茶屋の仲居でもしているのではないかと思われた。
浅井はその女のことを、時々思い占めていたが、道楽をしだしてから逢ったいろいろの女の印象と一緒に、それも次第に薄れて行った。
十六
浅井は、妻が傍に自分の顔を眺めていることを思うだけでも気窮《きづま》りであったが、細君も手紙などを整理しながら、自分の話に身を入れてもくれない良人の傍に長く坐っていられなかった。
「あの静《しい》ちゃんがね。」
細君は、押入れの手箪笥のなかから、何やら古い書類を引っくら返している良人を眺めながら、痩《や》せた淋しげな襟を掻き合わし掻き合わし、なつかしげな声でまた側へ寄って来た。
「静《しい》ちゃんがね、昨日《きのう》から少し熱が出ているんですがね。」
浅井は押入れの前にしゃがんで、手紙や書類を整理していたが、健かな荒い息が、口髭《くちひげ》を短く刈り込んだ鼻から通っていた。
「熱がある?」
浅井の金縁眼鏡がきらりとこっちを向いたが、子供のことは深くも考えていないらしく、落着きのない目が、じきにまた書類の方へ落ちて行った。
「……急にそんなものを纏《まと》めて、どこへ持っていらっしゃろうと言うの。」
細君は、そこへべッたり坐って嘆願するように言った。
「静ちゃんも、ああやって病気して可哀そうですから、ちっとは落ち着いて、家にいて下すったっていいじゃありませんか。」
浅井は一片着《ひとかたづ》け片着けると、ほっとしたような顔をして、火鉢の傍へ寄って、莨をふかしはじめた。持ち主の知合いに頼まれて、去年の冬から住むことになったその家は、蔵までついていてかなり手広であった。薄日のさした庭の山茶花《さざんか》の梢《こずえ》に、小禽《ことり》の動く影などが、障子の硝子越《ガラスご》しに見えた。
やがて奥へ入って行った浅井は、寝ている子供の額に触ったり、手の脈を見たりしていたが、子供はぱっちり目を開いて、物珍しげに浅井の顔を眺めた。
「静ちゃんお父さんよ。」
細君は傍から声をかけた。
「なに、大したことはない。売薬でも飲ましておけば、すぐ癒《なお》る。」
浅井は呟いていた。
「でも私も心細うござんすから、おいでになるならせめて出先だけでも言っておいて頂かないと、真実《ほんと》に困りますわ。」
浅井は笑っていた。
「お前が素直にしていさい
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