室の名を聞くと、お今は間近に迫って来ている晴れがましい婚礼が、頭脳《あたま》にはっきり閃《ひらめ》いたが、その考えはやはり確実ではなかった。いつとも知らず、乗せられて来たその縁談が、支度などに気のそわそわする、その日その日の気分に紛らされて来たことが、一層心苦しかった。その間にも、お今は自分の手で切盛りをする世帯の楽しさや、人妻としての自分の矜《ほこ》りなどを、時々心に描いていた。財産家だという室の家を相続する日を考えるだけでも、お今の不安な心が躍《おど》るようであった。
「ほんとにお前さんは幸《しあわ》せだよ。辛抱さえすれば、十万円という財産家の家を、切り廻して行けるんだもの。」
室を嫌っているとしか考えぬお増のそういって聞かす言《ことば》の意味が、お今にはおかしく思えたり、自分から勧めた縁談に、気のいらいらするようなお増が、蔑視《さげす》まれたりした。
電燈のちらちらするころに、二人は銀座通りをぶらぶら歩いていた。
日の暮れたばかりの街に、人がぞろぞろ出歩いていた。燥《はしゃ》いだ舗石《しきいし》のうえに、下駄や靴の音が騒々しく聞えて、寒い風が陽気な店の明り先に白い砂を吹き立てていた。
「こんなところ、いつ来たって同じね。」
お今は蓮葉《はすは》なような歩き方をして、不足そうに言った。近ごろ出来たばかりの、新しい半コートや、襟捲きに引き立つその姿が、おりおり人を振り顧《かえ》らせていた。
「どこかもっと面白いところへ連れていって頂戴よ。」
お今は体を浅井に絡《から》みつくようにして低声《こごえ》で言った。
五十七
翌朝《あした》お今が訪ねて行った時、浅井もお増もまだ二階に寝ていた。
浅井の甥の学校へ行ったあとの茶の間は、しんとしていた。そこに静子が、千代紙などを切り刻みながら、寂しげに坐っていた。昨夜《ゆうべ》すぐこの近所で別れた浅井が帰ってからの家の様子を嗅《か》ぎ出そうとでもするように、お今はいらいらしげに、そっちこっち部屋のなかを歩いていた。若い方の女中は、縁側の硝子障子に、せっせと雑巾がけをしていた。
時計が九時を打ってから、やっと二階から降りて来たお増は、明るい階下《した》の光に、目眩《まぶ》しそうな目をして、火鉢の前に坐ると、口も利かずに、ぼんやりと莨をふかしていた。
近ごろ浅井の入り浸っている情婦《おんな》の店の近所
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