淡紅くなつてゐて、間もなく町ではネルを著てあるく人も見えた。お絹さんは何もすることがなく、婆やを一人つかつて、頭髪などいつも綺麗に取りあげ、渋いお召などを引張つてゐたものだが、小説が好きで、大和風爐――詰り長火鉢の傍でいつも弦斎ものを読んでゐた。それで、あんたも何か書くさうだから、読むのも巧いだらうといふので、私に読んでくれといふので、何うせ退屈なので、読んで聞かせると、読み方が実に巧いといふので、夫から夫からと聴き飽きない。多分「小猫」だつたかとおもふ。するうち或る日古い文芸倶楽部か新小説かのなかに、ふと私の名が発見されてから、二人で大笑ひしたものだつたが、このお絹さんの処へ遊びに来るお婆さんに、昔は、京の芸妓であつた女の成の果が一人あつて、維新時代の京の騒動を体験してゐたので、よく其の話をして聴かした。私は格別そんな事に興味をもたなかつたが、そのお婆さんの身のうへには興味があつたので、よく聴かうと思ひながら聴きもしなかつた。そんなやうな事は、その後も屡々あつたが、さて自分の環境以外のことは、少しくらゐ話の筋を掴んだところで、容易に書けるものではないのである。ただいろんなことを記憶しておくと、何か書く場合に、それを取入れて、いくらかヴヰヴヰッドに描けるといふ程度である。
 するうち私はひどい熱病にかかつて、山の方にある病院へ診てもらひに行つた。多少は快くなつた筈の胃のアトニイは相変らずで、食べものが不自由なので、後戻りした形だつたが、気管支もひどく悪くなつてゐた。私の肺気腫は淵源が頗る遠いので、曽て博文館時代にも、熱病を放抛つておいて、到頭ひどいことになつたのだが、別府でもそれに罹つた訳である。それに二月も東京を離れて、遊惰な日を送つてゐたので、何となく不安と焦燥を感じて来た。ちやうど佐々醒雪氏(後に博士)から手紙が来て、金港堂で、文芸界(?)が創刊され、初号の巻頭に小杉天外氏が書くことになつてゐて、二号の分を私に書くやうにと言つて来たのが、大阪から附箋になつて廻つて来た。遊惰は遊惰でも、私はさうして温泉に浸つてゐるあひだも、いつも暗い気持で、果して小説を作る才能が自分にあるか否かが疑はれ、前途に不安を感じてはゐたので、佐々氏の手紙に接すると、遽に文壇のことが気にかかり出して、何か緊張した気持になるのであつた。それに京都の日の出新聞にゐる中山白峰氏からも手紙が来て、消息もたえてしまつた私のことを、先生が怒つてゐるらしかつた。私は咽喉が少し快くなりかかつて来たところで、或る日遽かに人々に別を告げて、船に乗つた。そして乗つた瞬間から、私の熱病はけろりと癒つてしまつた。船の酔ひが一歩上陸した瞬間に癒ると同じなのである。
 その後私は時々別府を思ひ出すのだが、別府へ行けば福岡や博多、長崎などへも寄りたいし、中国や四国も見たくなるから、大阪や京都へ行くことがあつても、何時も別府まで延さうといふ機会もなくて過ぎてしまつたのである。私は帰りにちよつと京都を瞥見した。京都には自由党の支部に長岡以来の渋谷黙庵氏がゐたが、帰りに立寄るやうに言つてよこしたので、白峰氏の家に一両日足を止めることにした。それが何の辺であつたのか、頓と見当もつきかねるが、塾にゐる時分、僅か四銭か三銭五厘かのパイレイト一つ買ふのに三四人で出しつこをして、時によると一本の紙巻を半分に切つて、分配したほどの貧乏であつたのに、京都における彼は相当広い部屋が三つもある二階の書斎に頑張つて、母堂と夫人と三人家族に落着いてゐたのである。佗しい放浪の旅をつづけてゐる私には、白峰氏の気取つた家庭振が、何か可笑しいやうでもあつたが、自分の姿が寂しいやうな感じでもあつた。渋谷氏は二度も私を迎ひに来たが、或る日其の頃政友会の幹部であつた尾崎行雄氏が醍醐寺を訪問するといふので、案内役の渋谷氏が私をも誘つたので其の一行に加はり、所謂醍醐の花見で有名な其の寺を訪れ、宝物を見せてもらつたが、本当の案内役は島文博士であつた。花見の折の諸大名の短冊の綴込みを見たことだけは、今でも覚えてゐるが古画のうちには国宝もあつたやうである。私はそこで精進料理を御馳走になつたが、美術など鑑賞してゐる余裕は、勿論私にはなかつた。母堂や白峰氏の案内で、四条や三条、御所や嵐山、清水、金閣寺、祇園の都踊りなども見たが、京都で遊ぶには私の気分はすこしあわただし過ぎたし、懐中も寂しすぎたのである。私が先生へのお土産に鯉の丸揚げ(つまり支那料理の紅焼鯉に似たもの)をもつて東京へついたのは、下宿の窓は若楓の葉がそよいでゐる晩春のことであつたが、京都を立つとき、駅で其のたれ[#「たれ」に傍点]の入つた壜を落して壊してしまつたので、遺憾ながら鯉だけ届けたのも滑稽であつた。
 下宿のお神が、別府の或る旅館の娘であることも、この旅行から帰つ
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