が、何ういふ訳か土地の大親分の後妻となり、私の知つた時代は後家さんで、劇場を経営してをり、前妻の娘が三人あつて、夫々裕福に暮してゐた。劇場の脇にある住居の方には、鶴などが飼つてあつて、私は当がはれた日当のいい二階にゐて、肉胞《にきび》などを取つてゐると、つい近くに見える山の裾に、既に梅が咲いてゐて、鶯が啼いていたが、そこからの夏蜜柑の枝には、黄金色の大きい蜜柑が成つてゐた。多分二月の上旬だつたらうと思ふ。其の時分は浴客といつても、大分とか熊本とか山口とか近県の人達ばかりで、大阪は勿論、東京人などは一人もなかつたやうに思ふ。私は東京にも遊学したことのある同じ年頃の青年のゐる、丸嘉といふ土地で一番大きいお茶屋へも、叔母さんにつれられて行つたものだが、そこのお神さんは叔母さんの継娘の一番上で、その家にも可也ゆつくりした浴場が二つもあり、自分の部屋をもつて、そこに一世帯かまへてゐる女などもゐて、叔母はその女の部屋で、八々をやつたものだつた。ちよつと凄味のあるその年増女は芸者といふよりも女郎と言つた方が適当らしかつたが、吉原の花魁などとは気分がちがつて、どこか暢《のん》びりしてゐた。昼は湯に浸り、夜は芝居を見たりして遊んでゐるうちに、京都と大阪へ旅をしてゐた二番目の娘が帰つて来て、私は芝居小屋の傍よりも、環境の静かな其の人の家へ行くことになつた。さて芝居はちんこ芝居といつて、役者は皆な年の少い女なのだが、大分、熊本辺から来たものであらう。その少女俳優のファンが多勢、遠くから興行先きへついて来てゐるといふ騒ぎで、私は退屈凌ぎに宿がかはつてからも替り狂言が出ると、一幕二幕覗いてみたものだが、それが引きあげると、今度は男優の一座がやつて来た。この男優達は皆な近村の若い農夫で、閑を利用して芝居を打つてまはるのである。
私が移つた家の女主人は、絹さんとかいつて、嫻やかな品の好い年増であつたが、主人といふのは唐津か大分の銀行家で、鐘紡などにも関係してゐるらしかつた。お絹さんは其の第二号なのだが、後に森川町の私の家を訪問したこともある。大阪の人達は、私の家へ来ると狭いのに喫驚したものらしいが、お絹さんも子供が多勢で、家が小さいのに驚いたに違ひなかつた。
私の部屋は、菖蒲などの植はつた水に架つた土橋を渡つて、庭の奥の方に建られた茶室めいた小間だつたが、庭の飛石のあたりには、既に芍薬の莟が
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