人も、全く抜差しのならない破滅《はめ》に引込まれた。
津島が板塀の節穴などから、間取りの工合などを、時々覗いてみてゐた其の一方の家へ足を容れることのできたのは、二年の後であつた。わづか一夜で、他の弁護士が片着けてくれたのであつた。
その家は荒れ放題に荒れてゐた。子供達が机でもすゑるやうになる迄には、可なり手がかゝつた。でも津島たちは、いくらか寛《くつろ》ぐことができた。
「一時こゝを湯殿にしようか。」津島は或る日、台所へ入つて見て、ふとそれを思ひついた。
彼は現在物置になつてゐる湯殿が破損してから、幾年もの長いあひだ、銭湯へ通つてゐた。多分第三回目の妻の妊娠のとき、津島は彼女のために中古の好い風呂桶を見つけて来て、それを湯殿へすゑることになつたのであつたが、それから二三年たつてから、知人が特別に作らせて、その後家の都合で不要になつた巌乗《がんじよう》な角風呂が、持込まれることになつたのであつたが、湯殿が破損してから間もなく、その桶《をけ》にも隙《すき》ができてしまつた。
彼は銭湯のなかで、色々の人と顔を合したり、挨拶を交したりするのが、年々|煩《わづら》はしくなつてゐた。偶《たま》には子供も洗つてやらなければならなかつた。鬢《びん》の毛などが白くなるにつれて、それが何となし惨《みじ》めくさく感ぜられた。何よりも湯殿の必要を、彼は先づ感じた。
「訳はありませんよ。」妻も同意した。
だから、今彼女が自分で頼んで来た大工に、この台所を何う云ふ工合に直せるかを相談してゐるのに、不思議はなかつた。そして少しばかり、その声の調子が高かつたからと言つて、さう気にするほどのこともなかつたが、ちやうど其の時、妻に対していくらか不機嫌になつてゐた折だつたので、そんなちよつとした手入れをするのに朝つぱらから、今一つの借家人や隣家へも筒ぬけに聞えるやうな調子で、何か話してゐるのが、いつもの彼女の安価な虚栄心でないにしても、職人などに対して、何かひどく気の利《き》いた風を示さうとでもするやうな浅果敢《あさはか》な悧巧《りかう》さだと思はれて、わざとらしい其の調子が何うにも堪《たま》らない気がしたのであつた。勿論それは津島のみが感じ得ることかも知れなかつたが、年を取つてから出て来た彼女の厭味の一つかも知れないのであつた。男は年を取るに従つて、洗練されて来る。しかし女はその反対だと思はれた。
「何だつてあんな大きな声を出すんだ。」
暫らくしてから、さく子が此方の家へ来て、茶の間の縁先きで、そこに干してあつた足袋の位置をかへてゐると、津島が座敷の縁へ出て詰《なじ》つた。
さく子はちよつと驚いたやうな顔を、こつちへ向けた。二人は昨日から口を利かないのであつた。
「何です。」
「あんな調子づいた声を出して、どんな湯殿を作るつもりなんだ。」
「別に大きな声なんか出しやしませんよ。」
「こゝまで筒ぬけに聞えるぢやないか。隣りぢや何《ど》んな普請をするかと思つたに違ひないんだ。」
「可いぢやありませんか。別に悪いことをするんぢやないんですもの。」さく子はさう言つて部屋へ入りかけて、
「あゝ煩《うる》さい。」と眉《まゆ》に小皺《こじわ》を寄せた。
津島とさく子が不快を感じ合つてゐたといふのも、今までも善くあつた彼女の弟のことからであつた。その弟が津島に対して金銭上で、ちよつと狡《ずる》いことをやつた。預けたものを質へ入れて、放下《ほつたらか》しておいたのが、津島の気を悪くした。その不正なことを、さく子も腹を立ててゐたけれど、其れ以外にも少し金銭上の取引きがあつてそんな事には頭脳《あたま》の働きの鈍い津島に、さく子はいくらか弟の非を蔽《おほ》ふやうな説明を加へたのであつた。津島はその弟に可なりな補助を与へたこともあつたけれど、利き目のないのに懲《こ》りて、さうした交渉は作らないことに決めてゐたのであつたが、ふいと虚につけ込んで小股をすくはれたのが、腹立しかつた。さく子も弟の悪いことは十分知つてゐた。大袈裟《おほげさ》に津島の恩を弟に着せたりすると、それが津島には擽《くすぐ》つたくもあつた。しかしその時は幾らか体裁を作るためにか、それとも気づかずにか、とにかく曖昧《あいまい》にしようとした。が、其よりも差当つて質に入れられたものを、津島は取返さうとした。そして終ひに自分で金を払つて、漸《やうや》く取り返すことができた。その金は僅《わづ》かだつたけれど、人を舐《な》めたやうな彼の態度が憎《にく》かつた。彼はさく子にも当らずにはゐられなかつた。そんな場合に、子供に甘いさく子たちの母親が、誠意をかいてゐることも津島を不快にした。
津島はさく子に移されて行つた不快が、まだ滓《かす》のやうに腹に残つてゐたので、さうしたさく子の調子が、忽《たちま》ち逆上性の神経を苛立
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