M―氏の令嬢で、もう一人の美しい人が姪《めひ》で、今一人の娘さんが友達だことを知つた。
「私は兎に角正しい踊りを教へるつもりで、遣《や》つてゐますが、この町にも社交ダンスは拡《ひろ》まるだらうと思ひます。」
「床が板でないので、少し憂欝《いううつ》ですね。」
「さうしようかと思つたんですけれど……。」
「どんな人が踊りに来ますか。」
「いろ/\です。あすこにゐるのはお医者さまと、弁護士です。」
 汗がひいたところで、私はまたざら/\するフラワへ踊り出したが、足の触感が不愉快なので、踊つたやうな気持にはなれなかつた。
 私は椅子にかけて、煙草をふかした。
 すると先刻《さつき》から踊りを見物してゐた、洋装の婦人が、いきなり席を離れて、つか/\私の方へ寄つて来た。
「あなたはT―先生でいらつしやいましたね。」
 さう言葉をかけられたので、私は彼女が誰だかを思ひ出さうとして、その顔を見あげた。
「さうです、貴方《あなた》は誰方《どなた》でしたつけ。」
「私山岡ですの。つい先生のお近くの……。」
 私はまだ思ひ出せなかつたが、巴黎院《パリーゐん》といふ、一頃通りで非常に盛《さか》つた理髪店のマダムの面影が、何《ど》うやら漸《やつ》とのことで思ひ出せた。マスタアは洋行帰りのモダンな紳士であつた。しかしそれだか何《ど》うだか、分明《はつきり》したことはわからなかつた。
「こちらへ何《ど》うして来てゐるんですか。」私は当らず触らずに聞いた。
「こちらの三越の婦人部にをりますの。お序《ついで》があつたら、お寄り下さいまし。」
「は、ことによつたら……。お踊りにならないんですか。」
「えゝ、ちよつと拝見に。」
 婦人は元の席へ戻つたかと思ふと、間もなく連れの婦人と一緒に、アトリエを出て行つた。
 私は政治に興味を寄せたりして、終ひに店を人に譲つて、郊外へ引越して行つた巴黎院《パリーゐん》のマスタアのことを考へてゐた。マダムが、職業婦人として、こんなところへ来るやうでは、あの夫婦も余り幸福ではなささうであつた。それに私の嗅覚によると、あのマダムは私の隣国の産れに違ひないのであつた。
 汚い黒の洋服を着た、若い男が一人、入替りに入つて来て、私の傍に腰をかけた。
「こゝは何ういふ風《ふう》にすればいゝですか。」
「いや、やつぱりクウポン制度です。」
「あのお嬢さんたちに申込んでも構はんです
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