くような気もしていた。
「お清さんお清さん。」と、廊下で自分を呼んでいる朋輩《ほうばい》の慵《だる》い声がした。(お庄はこの家ではお清と呼ばれている。)お庄は聞いて聞えない風をして黙っていた。するうちに手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》で目を拭いて客の方へ出て行った。
 それから二、三日して、お庄は菓子折などを持って、築地の方を尋ねた。奥の方では叔母の爪弾《つまび》きの音などが聞えて、静かな茶の間のランプの蔭に、母親が誰かの不断着を縫っていた。お庄がそっとその側へ寄って行くと、母親は締りのない口元に笑《え》みを見せて、娘の姿にじろじろ目をつけた。
「お前がここへ来ると言って、それきり来ないもんだで、どうしたろうかと言って、叔父さんも豪《えら》い心配していなすったに。」と言って、今夜は同役のところへ碁を打ちに行っていることを話した。正雄も二、三日前田舎から出て来た叔母の弟をつれて銀座の方を見に行って、いなかった。
 お庄は、そこで二、三服ふかしてから奥の方へ叔母に挨拶に行った。寒がりの叔母は、炬燵《こたつ》のある四畳半に入り込んで、三味線を弄《いじ》りながら、低い声で端唄《はうた》を口吟《くちずさ》んでいたが、お庄の姿を見るとじきに罷《や》めた。
「おやお庄ちゃんかい、しばらくでしたね。」と言って振り顧《かえ》った。叔母はその晩気が面白そうに見えた。そして、堅苦しく閾《しきい》のところにお辞儀をしているお庄に気軽に話をしかけながら、茶の間へ出て来た。
 しばらくすると、叔母の弟が正雄と一緒に帰って来た。色の白い目鼻立ちの優しいその弟は、いきなりそこにべたりと坐って溜息を吐いた。
「ああ、魂《たま》げてしまった。実に剛気なもんですね。」
「この人は銀座を見て驚いているんだよ。」弟は笑い出した。
 部屋が急に陽気になった。お庄も晴れ晴れした顔をして、衆《みんな》の話に調子を合わした。

     三十

「叔父さんはことによると今夜も帰って来ないかしら。」叔母は柱時計を見あげながら気にしだした。時計はもう十二時近くであった。
「あの人の碁も、このごろは一向当てにならないでね。」
 茶箪笥から出した煎餅《せんべい》も、弟たちが食い尽し、茶も出《だ》し殻《がら》になってしまった。母親は傍《はた》の話を聞きながら時々針を持ったまま前へ突っ伏さるようになっては
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