言を言った。もうランプが点《とも》れていた。お庄は隅の方へ鏡を取り出して大人ぶった様子をして髪の形などを直していた。
「今日でなくとも、明日という日もありますから……。」と、お庄は安火《あんか》に入って、こっちを見ている糺の苦い顔を見ながら言った。
「余所《よそ》へ出て働くというのは辛いものだろう。」と、糺は傍から口を利いた。
「どうせそれは楽じゃないわ。」と、お庄も鏡に映る自分の髪の形に見入りながら、気なしに言った。
「今初めてそんなことが解っただか。お前が独りで口を拵えて行ったじゃないかえ。」
 お庄も糺も黙っていた。
「さあ、若いものは遅くなると危いで、化粧《つくり》などはいい加減にして、早くおいでと言うに。」と、婆さんはやるせなく急《せ》き立てた。
 築地の方へは、この家が下宿を引き払った時分から、母親が引き取られていた。弟も相変らずいた。そこへ行くには、叔母にもちゃんとした挨拶をしなければならず、自分の身の上の相談を持ち込むのも厭であった。
「それじゃ行ったらいいだろう。そして小崎の叔父に話をして、浅草なぞは早く足を洗った方がよさそうだぜ。」糺も興のない顔をして言った。
「え、それじゃ行きます。」お庄は急に髪の道具をしまいかけた。
「どうせお前たちを見るのは、一番縁の近い小崎のほかにアないもんだで、行ったらよく話して見るがいい。あすこには子供がないで、そのくらいのことをするが当然《あたりまえ》だ。」
 するうち古茶箪笥の上の方にかかっている時計が五時を打った。お庄は何だか気が進まなかった。寄席へも行きそびれたような気がして、心がいらいらした。糺に話したいことも胸につかえているようであった。お庄思いの糺には、家もなくて方々まごついているお庄の心持が、一番解っているように思えた。
 お庄は帯を締め直すと、二階に忘れて来た手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を捜しに上った。二階には寒い夕方の風が立てつけの悪い障子をがたがた鳴らして、そこらの壁や机の上にまだ薄明りがさしていた。お庄はその薄暗いなかに坐って、しばらく考え込んでいた。するうちにそっと起ちあがって、段梯子を降りた。
 お庄はやがて、堅く凍《い》てついた溝板《どぶいた》に、駒下駄《こまげた》の歯を鳴らしながら、元気よく路次を出て行った。外は北風が劇しく吹きつけていた。十五日過ぎの通りには
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