宿屋の前へ来かかったとき、母親と車夫との話し声を聞きつけて、薄暗い窓の簾《すだれ》のうちから、「鴨川《かもがわ》の姉さまかね。」と言って、母親の実家《さと》の古い屋号を声をかけるものがあった。見るとそこに髯深《ひげぶか》い丸い顔が、近眼鏡を光らしてニコニコしている。
その顔はじきに入口の格子戸《こうしど》の方へ現われた。
「おや、みんなやって来たやって来た。」と言う、ここの女主《おんなあるじ》の声も耳に入った。
しばらくすると帳場の次の狭苦しい部屋で物の莫迦叮寧《ばかていねい》な母親と、ここの人たちとの間に長い挨拶《あいさつ》が始まった。
気象の烈《はげ》しい女主は、くどいお辞儀を続けている母親を見下すようにして、「東京は田舎と異《ちが》って、何もしずに、ぶらぶら遊んでいるような者は一人もいないで、為《ため》さあのような精《ずく》のない人には、やって行かれるかどうだか私《わし》ア知らねえけれど、まず一ト通りや二タ通りのことでは駄目だぞえ。」と、ずけずけ言った。
「そうでござんすらいに……。」と、母親は淋《さび》しい笑顔《えがお》を作って、ずらりと傍に並んで坐った子供を見やった。
子息《むすこ》の菊太郎《きくたろう》は、ニコニコしながら茶をいれて衆《みんな》に侑《すす》めた。
「大きくなったな。お庄さんは幾歳《いくつ》になるえね。」と、お庄の丸い顔を覗《のぞ》き込んだ。
部屋には薄暗いランプが点《とも》されて、女主の後から三男の繁三《しげぞう》が黒い顔に目ばかりグリグリさせて、田舎から来た子供の方を眺《なが》めていた。
やがて繁三につれられて、お庄は弟と一緒に近所の洗湯《せんとう》へやられた。
三
その晩お庄は迷子《まいご》になった。
「お庄ちゃんは女だから、そっちへお入り。」と、お庄はパッと明るい女湯の中へ送り込まれて、一人できょろきょろしていた。そこには見たこともない大きい姿見がつるつるしていた。お庄は日焼けのした丸い顔や、田舎田舎した紅入《べにい》り友染《ゆうぜん》の帯を胸高《むなだか》に締めた自分の姿を見て、ぼッとしていた。
湯から上ってみると、男湯の方にはもう繁三も弟も見えなかった。お庄は一人で暗い外へ出ると、温かい湯の匂《にお》いのする溝際《どぶぎわ》について、ぐんぐん歩いて行ったが、どこへ行っても同じような家と町ばかりであっ
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